岡檀『生き心地の良い町』感想

自殺率の低い町、徳島県海部町(現海陽町)の秘密に迫る。

ないことの証明

修論を自殺をテーマに書こうと思っていた著者は海部町の自殺率の低さを知り自殺予防因子が何かあるのではないかと探る。悪魔の証明に近しく、実際先行研究においては自殺予防因子に関するものはほぼなかった。だが隣接する町の自殺率が高いことなどから海部町について詳しく知れば何かがわかるはずだと考え研究を進める。

海部町のすがた

徳島県南端、高知県との県境に位置する27㎢の町で、農業地区、漁業地区、商業地区に分かれている。漁業地区と商業地区は人口密度が高い。

古くは木材等の集積・経由地として栄え、ある程度広範な地域から集まったと考えられる。この町では赤い羽根募金があまり集まらないという。それはケチだということではなく何に使われるかようわからんもんには金を出さない。自分のことは自分できめる、他人は他人、自分は自分という自主独立の傾向が強い。また年功序列の傾向も弱い。

病、市に出せ

これは古いことばで今の人間はあまり知らないようであるが、とりあえず困ったことがあったら人に言えば軽症のうちに解消策が見つかるだろうということ。海部町では鬱病の受診率が高いが、軽症で済む。また鬱病の話題をタブー視しない。また近隣の精神科医は受診室に入ってくる前に海部町の患者は判別できるらしい。彼らの足音は元気だという。

絆か軛か

地方であればどこでも近隣との付き合いはある。海部町においては歴史的にも多様性を許容し、人間関係は組み換え可能なものと捉えられている。人口密度が高いということはある程度置換可能な人間関係があるということで時計的傾向と田舎的傾向のよいところを併せ持っているということなのかもしれない。

海部町の悪いところ

海部町は近隣町村のなかで一番幸福率が低いという。一方で幸福でも不幸でもないと答えた人は最も多かった。おそらくこれは他者との比較をしないということから身の丈、ほどほどを知っているということだろう。

これを知った地元の男性はそれが海部町の良くないところだという。それが故に出世する人間がいないのだと。

 

 

 

西沢大良『現代都市のための9か条』感想

近代建築、近代都市の欠陥を指摘する書。雑誌の連載などの集成。

新型スラムの形成

近代都市は成長を前提とし、(新型)スラムの発生を伴った。近代都市計画はスラムクリアランス(再開発)を試みるが、それは必ず別種のスラム誕生に帰結する。ある部分を「浄化」しても、都市は他の部分との連関をもった系になっているから、部屋の端に荷物を寄せたということに過ぎない。スラムは消滅させるのではなく、保存・修復されなくてはならないという。ある都市圏における異質なサブセットを保存することで都市の冗長性を確保することができる。

人口流動性(漁農村→都市/都市A→都市B)

近代都市の形成は資本主義の発展にともなってなされた。産業革命期に都市人口が爆発的に増加することで都市の住環境が著しく悪化した。これに対して地区計画、上下水道の整備などの施策がとられた。

また都市を集落(コミュニティ)と捉え、人口流動性を疑似的に解消しようという試みが田園都市である。限定的なエリア、期間であればスプロール現象も抑え込め、この考えは成立するようにみえるかもしれない。だがこれは問題を外部に投げるだけの疑似的な解決にすぎない。産業資本主義がひとたび起動してしまうと人口の流動は避けられない。人口流動は都市の発展にしたがって二つの型がある。①農漁村→都市、②都市A→都市B。日本などは②の時代にある。流動にしたがいある極においてはスプロール現象をともなう広域な都市圏が形成される。広域な都市圏を形成した地方都市などにおいて人口減少への対応としてコンパクトシティという考えが提唱されることがあるがこれは有効ではない。なぜならばこれは人口流動性を無視した考えであるからだ。人口減少によりインフラの維持が不能であるということを前提としているようだが、行政以外でその役割を担うなどで代替可能ではないか。

都市計画

話は前後するが論の前提として「都市計画」に対する言及がある。クリストファー・アレグザンダー『都市はツリーではない』、ジェイン・ジェイコブズアメリカ大都市の生と死』が都市計画の不可能性を立証したかのように捉えられることが多い。

彼らの主張は都市は単一の主体によって作り上げられるものではないということだ。複数の人々の関与によって都市は形成される。それゆえ単一の意思が計画し、それを実現せしめるというタイプの都市計画が非合理であるという主張である。すなわち近代的な都市計画の手法を批判したので都市計画自体が不可能だとしたわけではない。

9か条
  1. 新型スラム
  2. 人口流動性
  3. ゾーニング
  4. 食料とエネルギー
  5. 生態系
  6. 近代交通
  7. セキュリティ
  8. かいわい性
  9. 都市寿命

以上が9か条である。3以下はちょっと割愛してしまうが近代都市、建築というのは限定的な条件を前提とした処方箋であったにもかかわらず、その狭いパースペクティブのもと建築、町づくりが今もなお続いている。このためどこかで限界が訪れるであろうということである。合理性のみを考慮するのではなく冗長性を含みいれることが必要である。都市は国家より長生きする。ゆえに限定的エリアを独立して短期的視座をもって捉えてはならない。

表題以外に木造進化論、ほか談話等を含む。真ん中に著者設計建築物の写真アリ。どれも興味深いが今治港 駐輪施設・トイレ | SHP は使ってみたい。

 

小川さやか「『その日暮らし』の人類学」感想

またもkindle unlimitedにて

タンザニアを主な舞台に零細商人たちを観察しながらオルタナティブな資本主義のあり方を考える新書。

均質的な時間進行を基礎とし、未来のために現在を投資するという(先進諸国にみられる)資本主義的世界観に疑義を呈する。ただタンザニアで多くの人が従事する小規模小売業は別にコミュニズム的なものではなくあくまで資本主義の一変種であると位置づける。

著者のいうliving for todayというのは今日、明日、今週…顔の見える相手そうしたあくまで具体的で抽象化されていない生活圏をたくましく生き抜く人々のあり方を指している。

インフォーマル経

これは決してなんでもありではなく独自の倫理に基づいて作動している。但しそれは法によって断罪されるのではなく彼らの社会における道徳にかなっているかというのが判断基準になる。アフリカに進出してきている中国人は限度を越す、あるいは顔が見えない関係であるがゆえにその基準を踏み外すとタンザニア人は考えることがある。ただそれでもコピー商品はやむを得ず必要になることがある。例えば日本の製品はほとんど壊れないのは素晴らしいが高すぎる。

またタンザニアの人々は専門を深めていくのではなく幅広く仕事をおこなう。仕事のノウハウは気軽に教えるがまた仲間を集めて組織化するということにはならない。将来の仕事の計画を語るとしても直線的に目的に向かうのではなく、良い巡り合わせを得るときまで待つ。そもそも安定的な職場が存在しないということかもしれないが、収入減を複数化することでリスクを低減している。

M-pesaがタンザニア人の信用関係を変えたか?

タンザニア人はよく知人間で金銭の貸し借りを行っていたが、それはしばしば返済をあてにしたものではなかった。単純に連絡をとるのが容易でないこともあるし、困窮状態にあるひとに金を貸せばそれが巡り巡って己が身のためという考えも底にあったようだ。ことさらに借りを作ったと気に病むことはないし、逆に金を貸したからといってそれを背に上手に出ることもない。人はだれかに「借り」を作るのが当たり前だし、お互い様であるという考え方である。現代日本社会が一般的に規定するような誰にも借りを作らず自己責任のもと自律して(いるという幻想のもと)生きるのが正義とされるのとは全く異なる。

そうしたタンザニア社会にケニアのsafaricomという会社が作ったM-pesaという送金システムがvodacomによってサービスが提供されることになった。詳細はここでは省くが携帯電話があれば少額から簡単に送金ができるというシステムである。このシステムによって金の無心がよりカジュアルにかつ同時に多人数にできるようになった。しかし当然逆に金の返済もより簡単に迫られるようになった。

携帯とエム・ペサは〈借り〉を「負債」として即時的に清算しなくてはならない状況を生み出した。そのような事態への対処法は、サルトゥー=ラジュが批判した資本主義経済が現代人に誰にも〈借り〉を負っていないと錯覚させるシステムと似ていた。しかし、これらのシステムは身近な人間どうしの相互扶助の延長で機能し、結果としては、「誰もが誰かに金を貸しており、誰もが誰かに金を借りている」世界を実現していた。すなわち、〈借り〉の負の側面を回避しながら、〈借り〉の正の側面を中心にしたシステムが、ここでは自生的、自律的に働いているのである。 P187/207

このあたり議論は正直ほんとうかあ?というところはある。タンザニア人は「負債」感を抱かずいまこのときを生きているのだ!という結論ありき感がやや漂う。隣の芝理論というかあくまで部外者が感じるオリエンタリズムに幻惑されているのではという。

 

少し文句を言ってしまったが、日本人はもっと気楽にやりたいことをしてけよというのはそのとおりだし、都合よく我々を画一化して組織化しようとするやつらには逆らえというのもごもっとも。タンザニア人の生き方を日本で語ったら麻雀をしているときに風が吹いてきたと思うときがあると共感されたという話があとがきにあったが、その時々の風に乗り、気軽に生きていこうと思える書だった。

 

 

 

ジャック・ロンドン『野生の呼び声』『白い牙』感想

いずれも深町眞理子訳、キンドルアンリミテッドにて

『野生の呼び声』1903、『白い牙』1906初出

犬の狼化/狼の犬化あるいは互いの揚棄

雑に言うと前者は犬→狼、後者は狼→犬への移行を描いている。もちろんどちらかを完全に捨て去るということではなく、犬/狼っぽさを残しつつ、社会化されたり野生を呼び覚ましたりするなかで、戸惑い・軋轢などが様々なできごとを通じて表現される。

野性の呼び声はかなりコンパクトな作品でほとんどアクションシーンが中心となっており一息で読める。対する白い牙はだいたい3倍ほどの分量がある。冒頭の犬ぞり部隊の人間視点で描かれる1匹また1匹と犬たちが殺されていくシーンはややホラーチックな緊迫感があるものの、後続の主人犬幼少期のシーンは内省的な描写が多く物語の速度が落ちるように感じる。犬(狼)の内面描写がされていくのだが、その際人間的な理屈を述べたあとにとはいえ犬はこんなことは考えはしないんですけどね。みたいな流れがたびたびある。じゃあそんなこと書くんじゃないよと思ってしまい、けっこうだれる。

生まれ、命名等を経ることで一種、犬の教養小説的なものを目指したのかもしれないがそんなにうまくいっていないように感じた。ただし動物同士の闘争に場面が移ると話に推進力が出てくる。

飼い主遍歴―人が犬を見つめるとき、犬もまた人を覗いているのである。

このように2作品は外形的には対照的だが、主人犬の飼い主が転々移り変わるというのは共通している。有能な人間、無能な人間、やなやつ……犬を通じて人を描くという意図が犬の内面描写の悪癖につながっているようにも思う。動物の内面を擬人化してとらえようとするのはまあまあ図々しい。

人との関係により犬は変わっていく。西部劇の時代から都市化が加速する人間社会の変遷ともパラレルに考えられる。

犬ぞりにおける先導犬の位置づけ

野性の呼び声では主人犬バックは物語中ほとんどをそり犬として過ごす。この中で先導犬はまさにリーダーと位置付けられている。一方白い牙においては犬ぞりのフォーメーションが二種類示される。"インディアン"式の扇形フォーメーションにおいては先導犬はリーダーではなくほかの犬の目の敵とされる。犬の本性は前に走るものを追うことである。また人間が先導犬をえこひいきすることでこれを助長する。このことでほかの犬はより一層先導犬を追い、先導犬はより懸命に逃げる。犬同士が直列する隊列では後ろの犬が前の犬をかむことは難しいが扇形フォメではこれが容易になる。なぜ扇形かというとインディアンのそりは刃がついていないため雪に埋没させないように力を分散させるということらしい。

 

博物的正確さが欠けているということで当時はセオドアルーズベルトも絡んでくる論争になったらしい。それだけ売れ線だったんだろう。生物学的に正しいかわからないが小学校高学年くらいの子も読むのにおすすめできそう。

 

 

 

時のオカリナとムジュラの仮面

それぞれDS版をクリア

時オカは64当時もやっていたが、井戸の底が怖くてやめた記憶がある。子供のころは暗闇を相当恐れていた。

時オカは3Dアドベンチャーゲームの基本フォーマットとなった画期的な作品であることは言うまでもないが、自分にはムジュラが激烈に刺さりまくった。正直ゼルダに限らず謎解きというのがあまり好きじゃない。制作者意図のメタ読みをしてうまくレールに乗れるかどうかでしかないと感じてしまう場合が多いし、これにアクション要素が絡むと少し操作をミスって(しばしばカメラアングルが悪かったりで)足場から落ちたり水流に流されたりして正解ルートから外れてやり直しとかになるとイライラがやばい。そして謎が解けたところで達成感というよりももうこれに付き合わなくていいんだという解放感があればまだしもso whatみたいなだからどうした徒労感しか残らないときもある。

ムジュラでもイラつくときは何度かあったがあとでいろいろみるとDS版は64より親切になったところがあるようで堪忍袋の緒は無事だった。 

プレイヤーの知識の蓄積と死に覚え

3日間ループの中でプレイヤーはいろいろと試行錯誤する。注意深く進めていればゲームオーバーになることはほぼないが、時間切れになることはたまにある。次にもう一度やれば最適化とまでは言えなくともある程度効率化されてなんとかなる。

TPSとFPSにおいてゲームにおける語りの手法が明らかに異なると感じるのはこのときだ。FPSであれば(一応は)主人公とプレイヤーは一体化されている。あまり界隈に明るくないので間違っているかもしれないが、FPSの場合なぜ死んだのに生よもう一度とやり直せるのか特に説明がない場合が多いと思う。みなさんわかりますよねこれはゲームですよ。FPSはプレイヤー=操作キャラと画面上で明示されているからともいえるのかもしれないが、そうした説明がないのは2Dプラットフォーマーの大半もそうだろうから他に理由がありそうだ。たぶんプレイヤースキルへの依存度が高いものほどわざわざそうした理由付けを要しないということなんだろう。プラットフォーマーシューティングゲームでは残機とはなんだという問題がそもそもある。あいつは転生したのか、クローンなのか? これへの回答は黙ってやれ、これはゲームだ。ということで、あるいはアーケードゲームであればお前の投入した硬貨の有効期限だということだろう。

これに対してTPSはある程度語りを重視したゲームということになるだろう。そうすると必然なぜ死んで生きかえり得るのかという説明が求められることもある。例えばフロムゲーなんかは説明がゲーム内の理屈でされている。

とここまで書いて気づいたが別にムジュラもゲームオーバーになった際の説明はない。だがなぜ我々がこの世界に関する知識を先んじて得て、より適切な行動に至ることができるのかという点がゲームシステムとして出来上がっている。生よ、もう一度。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。

仮面/誰かに成りすますこと/世界を救うこと

ゲームをプレイするときわれわれはしばしば超人的な能力を得て、またしばしば世界を救う。このことをお面システムはよく表現している。だが限定的場面でのみ有効なお面が多いのは残念なところでもあるが、なかなかこれ以上のことを求めるのは現実的でないこともわかる。住民によってはつけるお面によって反応が変わるところもあるが…

住民たちがリンクにお面を渡すことで浄化・解放されるというのは象徴的で仮面はTPOにあわせた単機能的なものであるがこれを譲渡することで自らが解放される。もっともわかりやすく描かれているのはポストマンだ。そして鬼神のお面は今まで集めたお面を月の子供たち=お面やに譲渡することで得られる。鬼神リンクとは成長した(あるいはし過ぎた?)リンクの姿である。今まで集めたお面の重力を離すことで力を得る。そしてお面屋は別世界へ去っていく。

どうしても被りもので力を得るというとHotlinemiamiを想起してしまうがどちらもゲームシステムと語り、プレイフィーリングがシンクロした神ゲーでmiamiの作者は影響を受けているのだろうか。

時間的制約のなかで

クリアしてからいろいろ漁っていたが、

社長が訊く『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D』|ニンテンドー3DS|任天堂

限られた期間、資源の必然性から生まれたことがわかる。追い込まれることで脳髄の鋭敏さが研ぎ澄まされる。まるで3日目の夜をダンジョン終盤で迎えたムジュラのプレイヤーのように。

オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』感想

光文社古典新訳文庫、仁木ひとみ訳、キンドルアンリミテッドにて

概要

ドリアン・グレイ:美しい若い貴族

バジル・ホールワード:新進気鋭の純粋な画家

ハリー・ウオットン:上二人より年上の、皮肉家ないし偽悪家

この3人を主要人物とする象徴主義的傾向の強い作品。主人公のドリアンがいかに変化を遂げるのか/遂げないのかということに焦点を当てる一方バジルとハリーは対立する極として不動である。弱SF要素(既存の訳語を当てるのであれば少し不思議といった塩梅のもの)を持つ物体があり、これが物語の眼目、マクガフィンとして機能する。これをある事件をきっかけにほこりをかぶった使わない部屋に覆いをかけ主人公は隠ぺいする。

結末の倫理的審級

ラストはあっけない。え、これでとたぶん大方の現代日本人は思うのではと。これまでの悪徳への報いを十分に受けていないと感じるだろうと。悪人は苦しんで死ぬべし。こうした創作上の倫理観というのはこと「マーケティング」を意識する、せざるを得ないような資本を投入した映画などではわりと厳格に守られている。自分も映画は最近めっきり見ないが、その影響を受けている。しかし別に現実には悪人は苦しんで死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。今際の際に己を悪行を悔いるかもしれないし、悔いないかもしれない。そうした意味ではこのラストはこの観念的な小説のなかで珍しくリアリティのある選択をとったといえるのかもしれない。

んーでもやっぱり、阿片窟で呆けたように醜く老い、恥辱にまみれ、最後には美醜や名誉といった観念さえ失い忘れられていくべきではと思ってしまう。

なんかワンスアポンアタイムインアメリカをまた見たくなってきた。

 

 

 

アンドレ・ジッド『狭き門』感想

キンドルアンリミテッドにて

ファンタズム(幻想)の中で挫折する恋愛。それは思春期ころから始まり、相思相愛であるにも関わらず青年期前半で終わる。

冒頭ではヒステリーの叔母などいくらか他者性をもつ第三者が登場するが次第に主人公ジェロームとヒロインのアリサという二人の関係性に焦点が絞られ、彼らと同様に我々読者も閉塞感を与えられる。19世紀の貴族階級の恋愛だが、日本の平民にとっても中高生のころを思い出させる普遍性がある。

アリサがキリスト教的な審級によってファンタズムをファンタズムとして受け入れることを拒み、恋のファンタズムを解消させることに腐心し死ぬ。主人公のいとこで恋人であるアリサには妹のジュリエットがいる。彼女との間にも主人公とはひと悶着あるが、結局裕福な年上の商人と結婚する。この姉妹は一般的な女性を2人に分解した登場人物といえる。ふつう女性は妹ジュリエットのような現実的な面と、アリサのような理想主義的な面をあわせ持ち折り合いをつけるものだろう。それゆえこのような悲劇的な結末に至ることはないだろう。また現代の平民であればどこかでセックスや労働といった機械によってファンタズムのイデオロギー的用法や打算を知り、このようなプラトニックラブは挫折するか妥協的解決をみるはずだ。

ピアノの調べは美しく響くか

アリサにおいては服装髪型、十字架のネックレス、本、ピアノといったアトリビュートによって心境の移ろいが表現されるがこれはすべてジェローム(あるいはアリサ)の想像的解釈によって物語られる。

アリサがピアノの調子が悪いので買い替えることにして前のピアノは引き取ってもらったというが、叔父(アリサの父)は彼女が弾いているのを聞くとそんなことはなく良い音色がしていたという。このちょっとしたエピソードは、本作を象徴している。

ピアノに言及している箇所を本文からいくらか引いてみよう。

夜、夕食が済むと、リュシル・ビュコラン(マルチニーク出身の非ピューリタン的伯母)は僕たち家族のテーブルには近よらず、ピアノの前に座って、ショパンのゆったりしたテンポのマズルカを得意げに弾くのだった。そして、ときには曲の流れを中断して、ひとつの和音を弾いただけで指を止めてしまうこともあった……。(3200の134/kindle)

ひと気のいなくなった客間では、ピアノの陰から体をはみださせて、伯母がジュリエットと話している姿が見えた。(3200の1050/kindle)

ジュリエットはとても幸せそうです。ピアノも読書もやめてしまったのを見て、初めは悲しく思ったのですが、エドワール・テシエール(ジュリエットの結婚相手、裕福な商人)は音楽が嫌いだし、読書もそんなに好まないのです。夫がついてこられない楽しみを捨てたジュリエットの選択は賢明なものです。(3200の1508/kindle)

夜、客間へ入っていくと、いつもの場所にピアノがないのでびっくりした。

…「ピアノは新しくするつもりなの」

「だから何度も言ったじゃないか」伯父はほとんど𠮟りつけるような厳しい調子で言った。「これまであれで十分だったんだから、ピアノを引き取らせるのはジェロームが発ったあとにすればよかったんだ。お前が急ぐから、みんなの楽しみが一つ減ってしまった……」

「だってお父さん」とありさは赤らめた顔を隠そうと横を向いて言った。「あのピアノはこのごろとても音が悪くなって、あれではジェロームだってなんにも弾けないわ」

「お前が弾くときは」と伯父は反論した。「そんなに悪い音には思えなかった」(3200の1866/kindle)

書簡体文学という想像的世界

この小説の後半はかなりの部分が手紙、日記によって構成される。それ以外の部分でもジェロ=アリの関係性にほとんどのページを割いている。まれに叔母などが介入してくることはあるがそれらは遠くから聞こえる声に過ぎない。この二人は父の名において異常を抱えている。アリサの父は妻に捨てられ、ジェロームの父は早くに死ぬ。アリサは父の機能不全を(おそらくパラノイアックな姿勢で)神によって補完しようとする。ジェロームの父には触れられることが少ないが、生前にピューリタン的道徳が植え付けられたであろうことは前半で示される(自ら狭き門を求めるというのは神経症的症状といえるだろう)。

アリサはジェロームが大いなる知恵を持っている(あるいはそれに到達することができる)と考えるが、ジェロームは単なる神経症患者にすぎない。北方謙三ではないが一発やって子供でも作れば解決するじゃろうと言いたくなるが、この二人の精神病者においてはそのような解決に至ることは決してないのである。