ジャック・ロンドン『野生の呼び声』『白い牙』感想

いずれも深町眞理子訳、キンドルアンリミテッドにて

『野生の呼び声』1903、『白い牙』1906初出

犬の狼化/狼の犬化あるいは互いの揚棄

雑に言うと前者は犬→狼、後者は狼→犬への移行を描いている。もちろんどちらかを完全に捨て去るということではなく、犬/狼っぽさを残しつつ、社会化されたり野生を呼び覚ましたりするなかで、戸惑い・軋轢などが様々なできごとを通じて表現される。

野性の呼び声はかなりコンパクトな作品でほとんどアクションシーンが中心となっており一息で読める。対する白い牙はだいたい3倍ほどの分量がある。冒頭の犬ぞり部隊の人間視点で描かれる1匹また1匹と犬たちが殺されていくシーンはややホラーチックな緊迫感があるものの、後続の主人犬幼少期のシーンは内省的な描写が多く物語の速度が落ちるように感じる。犬(狼)の内面描写がされていくのだが、その際人間的な理屈を述べたあとにとはいえ犬はこんなことは考えはしないんですけどね。みたいな流れがたびたびある。じゃあそんなこと書くんじゃないよと思ってしまい、けっこうだれる。

生まれ、命名等を経ることで一種、犬の教養小説的なものを目指したのかもしれないがそんなにうまくいっていないように感じた。ただし動物同士の闘争に場面が移ると話に推進力が出てくる。

飼い主遍歴―人が犬を見つめるとき、犬もまた人を覗いているのである。

このように2作品は外形的には対照的だが、主人犬の飼い主が転々移り変わるというのは共通している。有能な人間、無能な人間、やなやつ……犬を通じて人を描くという意図が犬の内面描写の悪癖につながっているようにも思う。動物の内面を擬人化してとらえようとするのはまあまあ図々しい。

人との関係により犬は変わっていく。西部劇の時代から都市化が加速する人間社会の変遷ともパラレルに考えられる。

犬ぞりにおける先導犬の位置づけ

野性の呼び声では主人犬バックは物語中ほとんどをそり犬として過ごす。この中で先導犬はまさにリーダーと位置付けられている。一方白い牙においては犬ぞりのフォーメーションが二種類示される。"インディアン"式の扇形フォーメーションにおいては先導犬はリーダーではなくほかの犬の目の敵とされる。犬の本性は前に走るものを追うことである。また人間が先導犬をえこひいきすることでこれを助長する。このことでほかの犬はより一層先導犬を追い、先導犬はより懸命に逃げる。犬同士が直列する隊列では後ろの犬が前の犬をかむことは難しいが扇形フォメではこれが容易になる。なぜ扇形かというとインディアンのそりは刃がついていないため雪に埋没させないように力を分散させるということらしい。

 

博物的正確さが欠けているということで当時はセオドアルーズベルトも絡んでくる論争になったらしい。それだけ売れ線だったんだろう。生物学的に正しいかわからないが小学校高学年くらいの子も読むのにおすすめできそう。