小川さやか「『その日暮らし』の人類学」感想

またもkindle unlimitedにて

タンザニアを主な舞台に零細商人たちを観察しながらオルタナティブな資本主義のあり方を考える新書。

均質的な時間進行を基礎とし、未来のために現在を投資するという(先進諸国にみられる)資本主義的世界観に疑義を呈する。ただタンザニアで多くの人が従事する小規模小売業は別にコミュニズム的なものではなくあくまで資本主義の一変種であると位置づける。

著者のいうliving for todayというのは今日、明日、今週…顔の見える相手そうしたあくまで具体的で抽象化されていない生活圏をたくましく生き抜く人々のあり方を指している。

インフォーマル経

これは決してなんでもありではなく独自の倫理に基づいて作動している。但しそれは法によって断罪されるのではなく彼らの社会における道徳にかなっているかというのが判断基準になる。アフリカに進出してきている中国人は限度を越す、あるいは顔が見えない関係であるがゆえにその基準を踏み外すとタンザニア人は考えることがある。ただそれでもコピー商品はやむを得ず必要になることがある。例えば日本の製品はほとんど壊れないのは素晴らしいが高すぎる。

またタンザニアの人々は専門を深めていくのではなく幅広く仕事をおこなう。仕事のノウハウは気軽に教えるがまた仲間を集めて組織化するということにはならない。将来の仕事の計画を語るとしても直線的に目的に向かうのではなく、良い巡り合わせを得るときまで待つ。そもそも安定的な職場が存在しないということかもしれないが、収入減を複数化することでリスクを低減している。

M-pesaがタンザニア人の信用関係を変えたか?

タンザニア人はよく知人間で金銭の貸し借りを行っていたが、それはしばしば返済をあてにしたものではなかった。単純に連絡をとるのが容易でないこともあるし、困窮状態にあるひとに金を貸せばそれが巡り巡って己が身のためという考えも底にあったようだ。ことさらに借りを作ったと気に病むことはないし、逆に金を貸したからといってそれを背に上手に出ることもない。人はだれかに「借り」を作るのが当たり前だし、お互い様であるという考え方である。現代日本社会が一般的に規定するような誰にも借りを作らず自己責任のもと自律して(いるという幻想のもと)生きるのが正義とされるのとは全く異なる。

そうしたタンザニア社会にケニアのsafaricomという会社が作ったM-pesaという送金システムがvodacomによってサービスが提供されることになった。詳細はここでは省くが携帯電話があれば少額から簡単に送金ができるというシステムである。このシステムによって金の無心がよりカジュアルにかつ同時に多人数にできるようになった。しかし当然逆に金の返済もより簡単に迫られるようになった。

携帯とエム・ペサは〈借り〉を「負債」として即時的に清算しなくてはならない状況を生み出した。そのような事態への対処法は、サルトゥー=ラジュが批判した資本主義経済が現代人に誰にも〈借り〉を負っていないと錯覚させるシステムと似ていた。しかし、これらのシステムは身近な人間どうしの相互扶助の延長で機能し、結果としては、「誰もが誰かに金を貸しており、誰もが誰かに金を借りている」世界を実現していた。すなわち、〈借り〉の負の側面を回避しながら、〈借り〉の正の側面を中心にしたシステムが、ここでは自生的、自律的に働いているのである。 P187/207

このあたり議論は正直ほんとうかあ?というところはある。タンザニア人は「負債」感を抱かずいまこのときを生きているのだ!という結論ありき感がやや漂う。隣の芝理論というかあくまで部外者が感じるオリエンタリズムに幻惑されているのではという。

 

少し文句を言ってしまったが、日本人はもっと気楽にやりたいことをしてけよというのはそのとおりだし、都合よく我々を画一化して組織化しようとするやつらには逆らえというのもごもっとも。タンザニア人の生き方を日本で語ったら麻雀をしているときに風が吹いてきたと思うときがあると共感されたという話があとがきにあったが、その時々の風に乗り、気軽に生きていこうと思える書だった。