松本卓也『人はみな妄想する』感想

基本的な語彙についての知識を前提としているラカンの入門書。まったくラカンのことを知らない人はワンクッションはさんでからのほうがよいと思われる。

前提

DSM精神障害の診断と統計マニュアル)を偏重する業界への反駁を動機としてラカンの思想的変遷を紹介している。

著者に倣い、私がこの本を読んだ動機を示す。精神病者神経症者ではおそらくなかったと思う)と一定期間対峙した経験があり、その症状の謎を知りたいと思っていた。ジジェクが好きでラカンのことはある程度学んだつもりだが、実践家の立場による意見を知りたかった。というのが大きな理由。

DSMというのはある症状(たぶんサントームではなく)を示すものに対してはこういった対処をすればよい(主には投薬)といったもので、精神分析のように病理のメカニズムを解きほぐすのではなく、対処療法的態度で病者に対峙することである。これはあらゆるものを定量化し、統計学的に分析するといった資本主義的あるいは「科学的」態度なのである。

ラカンの歴史的意義

ラカンという人物はソーカルドゥルーズ=ガタリによって価値下げされたという認識をされているかもしれない。だがラカンの示すトポロジーなどには衒学的な意図が漂うところがあるのは否定できないがそれによって彼の著述をすべて破棄するにはおよばないだろうというのが著者(と僕)の主張である。

ドゥルーズらの否定はラカンの思想的変遷を意図的に無視している部分がある。ラカンは考えを臨床の経験に基づき更新しており、最終的にはドゥルーズ的な考えに近づいている。精神病への診断は似たところであるものの、それに対する姿勢が少し異なるといった程度の話だろう。

アンチオイディプス

すべてをエディプスコンプレックスに還元するフロイトの考え方には当然反発が生じていた。ラカンフロイトの正当継承者といえるが、エディプスコンプレックス至上主義はフロイトの夢であるとラカンはした。エディプスコンプレックスはある時代における主流の共同幻想であり、絶対的なものではない。フロイトは症例分析において主に神経症を対象としていた。また時代的な制約もあった。ラカンはどちらかというと精神病を対象としており、フロイトを精神病に対峙した人間として更新したものといえる。現代においても父の名を大他者としたものたちは圧倒的多数を占めるだろうが、それは決して絶対的なものではなく他のシニフィアンによっても代替可能である。

だいたいの人間は神経症

ラカン精神病者神経症者を予備面接において峻別することを終生重視していた。患者を前にして境界例と認定する精神科医が多くいたが、それらを混同することは実践上、症状を悪化させることにもつながり、対処法も異なるため正しく分類することが重要であると考えていた。精神分析家に大いなる知恵があることを想定することは神経症者においては症状を緩和することにつながるが、精神病者においてはよいことではない。

多くの人間たちは神経症者傾向にある。大文字の他者(なかでもほとんどの人間は父の名)を疑うことなく受け入れている(あるいは受け入れすぎている)。

資本主義社会(兌換貨幣制)のなかで生活していると否応なく父の名を受け入れざるをえなくさせられるだろう。もっとも共産主義ならそれを回避できるのかといえばそうではなく、単に別の父の名を受け入れさせられるだけであろう。

金を稼げ、毛を生やせ、毛を脱け、歯を正せ、痩せよ、こどおじになるな、子を産め。街を歩き、電車に乗ればこういった社会的に正しい審級が、広告その他のメディアを介して圧力をかけてくる。おおくの人間はそうした主張を消極的にではあっても受け入れている。積極的に受け入れている人間はこのようなイデオロギーイデオロギーとして受け入れ、それを逆用し金を稼ぐ。消極的に受け入れるものたちがもっとも救いがたく、いわば彼らは肉屋を支持する豚どもである。

自閉症という希望

神経症よりである一般人は世界把握を隠喩によって為す。自閉症者は隠喩による世界把握が「正しく」機能しない。ラカンは思想の思想の発展過程においてパラノイア、スキゾフレニーから自閉症者に主な分析対象を移行させており、自閉症のあり方に新たな世界のあり様の希望を託す。享楽(あるいはその残滓)にしか人間の個性はなく、シニフィアンの連鎖を断つ(断たせられる)ことでそれが仄見える。蚕がメタファーとして本文で示されるが、世界から断絶され(し)自らを消費させ(し)、シニフィアンと化さされる(する)こと。

ラカンは晩年「父の名」ではなく「父の名たち」と複数化、非定冠詞化する。このような態度はドゥルーズ的、リゾーム的なものと言わざるを得ないだろう。

ラカンは、精神分析は終わりあるもの、ガタリドゥルーズ)は終わりなきものと考えていた。ラカンは生で対峙するには恐るべきものである享楽、あるいは固有のサントームというのは遡上することですべて解消できるものであると考えているのではなく、うまくやっていくもの、すなわちそれこそがその人間が持つ固有の特性と考えている。その諦念は極めて豊かなものであると私は思う。