『ラカンはこう読め!』 感想

やっぱり話が面白いジジェク先生、そのうさんくさい風貌は我々の幻想を逆用するための確信的なものと改めて感じる。私は彼を信用している。

冒頭にもあるようにラカンを各種作品等に適用することをもってラカン入門とする本書。ある程度ジジェクについて知っている人にはおなじみではあると思う。ビデオマニアなところをいかんなく発揮し、映画等を参照してとてもキャッチ―で非常にエキサイティング。

分析家は経験主義者ではない。様々な仮説を駆使して患者を探り、証拠を探すわけではない。そうではなく、分析家は患者の無意識的欲望の絶対的確信(ラカンはそれをデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に譬えている)を体現しているのだ。ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。「分析家は私の症候の無意識的な意味を知っている」と仮定したときにはじめて、患者はその意味に到達できる。フロイトラカンの違いはどこにあるか。フロイトは、相互主観的な関係としての転移の心的力学に関心を向けた(患者は父親に対する感情を分析家に向ける。だから患者が分析家について語っているとき、「じつは」父親について語っている)。ラカンは、転移現象の経験的豊富さにもとづいて、仮定された意味の形式的構造を推定した。

転移は、より一般的な規則の一例にすぎない。その規則とは、新たな発明というのは、過去の最初の心理に戻るという錯覚的な形式においてのみなされるということである。(pp.55-56)

転移というのはわれわれの読書体験についてもいえると常々思う。われわれは(じゅうぶんに慎重な態度を取らない限りは)己の知っていることを目の前の本に仮-託する。われわれはあまりにしばしば知っていることしか知ろうとしない。そして知っていることを改めて知ることに快楽を覚える。この偉大な?自家撞着に無頓着でいてはならない。

ロールズに関する言及も興味深い。

ジャン=ピエール・デュピは(幼児が母親の乳房を吸う弟に対する嫉妬に関する)この洞察にもとづいて、ジョン・ロールズのせい議論に対する納得のゆく批判を展開している。ロールズ的な正しい社会のモデルにおいては、不平等は、社会階層の底辺にいる人びとにとっても利益になりさえすれば、また、その不平等が相続した階層にはもとづいておらず、偶然的で重要でないと見なされる自然な不平等にもとづいている限り、許される。ロールズが見落としているのは、そうした社会では、かならずや怨恨の爆発の諸条件を生み出すだろうということである。そうした社会では、私の低い地位は全く正当なものであることを私を知っているだろうし、自分の失敗を社会的不正のせいにすることはできないだろう。

……自由市場資本主義における成功あるは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは性向)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義の最も重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。 (pp.68-69) 

資本主義の限界ということはしばしば言及されるが、上記の考えにもとづくと資本主義というのは限界があるからこそ生き延びる。

 文学あるいは映画では、(とくにポストモダン的テクストでは)われわれが見ているのは虚構にすぎないことを思い出させる自己反省的な忠告(リマインダー)が挿入される。

…われわれとしては、そうしたやり方に対して、いわばブレヒト的な威厳を与え、疎外の一ヴァリエーションだと評価したりするのではなく、そういうやり方そのものを否定すべきである。彼らのやっていることは、彼らの主張とは裏腹に、〈現実界〉からの逃避であり、幻覚そのものの〈現実界〉から逃げようとする必死の企てにすぎない。〈現実界〉は幻覚的な見世物の姿をとって出現するのである。

われわれがいま直面しているのは、幻想という概念の根本的両義性である。一方で、幻想は〈現実界〉との遭遇からわれわれを保護する遮蔽幕であるが、最も基本的な形の幻想そのもの、すなわちフロイトが「根本的幻想」と呼んだ、主体の欲望する能力の最も基本的な座標を提供するものは、けっして主観化されることなく、機能するためには抑圧されたままでなければならない。

…現実への覚醒は夢の中で遭遇する〈現実界〉からの逃避だとというラカンの警告…究極の倫理的課題は、真の覚醒である。それはたんなる睡眠からの覚醒ではなく、むしろ覚醒しているときにわれわれをより強くコントロールしている幻想の呪縛からの覚醒である。(pp.103-105)

ここで言うブレヒト的な威厳というのは第四の壁の破壊であるが、そもそもブレヒトの意図は観客が虚構をあくまで虚構であるという安寧の中での観劇を許さないようにすることにある。夢は現実より現実界であるが虚構も常にそうであるわけではない。単なる幻想の強化装置に陥ってしまうことがしばしばある。ジジェクが本文でも挙げているようにスクリーン上の俳優が観客に話しかけたり、舞台上でニワトリを殺したりすることで現実界と向き合うことができるわけではない。これらの行為は虚構世界が現実という幻想に降りてきているだけだ。そうではなく、観客を舞台上に引きずり込む必要がある。第四の壁を破壊したところで劇場を総想像界化しては意味がない。とはいえマニエリスムがマンネリに転化するのはいつかと問われれば答えに窮するのだけれど。ただ発信者、受け手がどのような姿勢で臨んでいるのか、虚構のマッサージ的用法もしくはクラッシャーあるいはデバッグ的用法なのか。

それと現実界について重要なことはカントの物自体とはことなるということだ。それは人間の知覚にも依存する。

5章、6章あたりについては多分続く