『ジャン=クロード・ヴァン・ジョンソン』感想

ダービーで自分を信じ切れず、中途半端な勝ちに終わり、目黒記念でそれを膨らまそうとしたところダミアンレーンが2着して水泡に帰した男の感想。

ウォッチリストにずっと入っていたのをやっと見た。これも池添さんとレーンさんのお陰です。

******

この作品はジャンクロードバンダムによるレスラーであり、マトリックスであり、8 1/2、そして蒲田行進曲あるいは田園に死すである。世間から忘れ去られつつある「ムービースター」が銀幕とともに裏家業に復帰し、己を見つめなおす話。

セルフパロディは元ネタを知らずとも楽しめるように配慮されている。最終話の格納庫の扉にあるうってつけの突起には爆笑間違いなしで、なおかつ感動する。パロディに対して感度が高い作品ということは自然、メタファーも豊富になる。ドッペルゲンガー的フィリップ(=劇中の役)が死ぬこと。ビデオ屋でヴァネッサに修行を付け、(彼女はポップコーンをつくる!)そして修業が完了するということは自分の現状を受け入れ役者としてはビデオテープの中に退くことまたは主役級ではなくなることを意味する(jcvdはどちらかというとDVDというよりビデオテープ的存在だろう)。またJCが孤児という設定、これは典型的「ムービースター」は個人的な出自とは切り離される=親がいないということを示している。このような過程を経て本来の自分を取り戻し、老いを受け入れ平穏に暮らすはずだったが……という無間マトリョーシカ構造

メタフィクションとしてスタッフはやるべきことはやったといえる。だがもちろんJCというスターが存在しなければ成立しないというのはウェザーコントロールバイスなどという「映画」的なものを信ずるドラガンの言う通り。

生きる喜びとは限界を越えた股裂きの痛みなのかココナッツウォーターのべたつきか、あるいは三冠馬を素直に見届けることなのか。

JCの戦いは明日も続く。

Hotline Miami 2とピグマリオンとジョンウィック2

コロナ時代の行動様式ってガルシアマルケスの本にありそうだなって思いながら久々にブログ書く。

Hotline Miami 2

ずっと積んでたのをやっとやった。1と比べて2はかったるいところが多いとは聞いていた。視野外からの射撃がたしかにうっとおしい。

1では主人公=プレイヤーという面が強調されておりそれがシナリオ、ゲーム性とマッチしていた。プレイ=暴力に慣れてくるプレイヤーに対する言及がゲーム内でされていた。一方2は群像劇であり、1の謎を明かすものとなっている。このストーリーはなかなか気の利いたもので、演出もよい。そして最後にはすべて無に帰す。1が刺さりまくってしまった人間としては相対的に評価は下になってしまうが、なお良ゲーではある。

クリア後にYoutubeでスピードラン動画を見たら難易度に関してはやる人がやればあんだけ爽快になるのか、文句を言うのは甘えだったなと思うが私には無理。


Hotline Miami 2: Wrong Number NG+ Speedrun in 33:50

ピグマリオン

バーナードショウの戯曲、光文社の新約がキンドルアンリミテッドにあったので読んだ。言語学者がヒギンズが花売り娘イライザを上流階級の娘に仕立てる話。オリジナルの神話と違うのは自分の理想の女性を作り上げるということではなくあくまで学者としての好奇心に基づくということで、メロドラマではないこと(ヒギンズは理想の女性が母親と公言し、若い娘が嫌い)。これをもとにしたマイフェアレディも今度見てみようかな。たぶんこっちはメロドラマでむしろ神話よりぽいかも。

ジョンウィック2

マイアミからの流れでどちらも2だがこっちは1からと構造に大きな相違はないが勢いが若干足りない(ような気がする、だいぶ前に見たからよく覚えていない)。多分原動力がわんこの恨みじゃないから?

最初のマフィアのおっさんの顔芸が面白い。そういえばこれもロシアンマフィア相手だった。ちゃんと装備の説明がスタイリッシュにされて以降のシーンでその能力が示されるのがよい。モーフィアスもでる。今回はわんこは無事だが名前はまだない。

耳そぎ饅頭、選択しないという選択、HHhH

空けてしましました。このブログ始めたのは無職のとき、それからいろいろあった。

楽しいこともあったけど、今はだいぶ落ちている。

最近読んだ本、町田康、キャスサンスティーン、ローランビネ。

 

耳そぎ饅頭は2000年前後の作品。エッセイ集。エッセイは初めて読んだかも。正直まだ極まってる感は薄い。町田康の文体の軽薄さは極めて好きだが、その一方ギャップを狙ってかの大仰な表現はあまり乗れないことがある。初めて彼を知ったときは全面的に最高と思っていたが次第にそのあたりは冷静に判断してしまう。もっと軽薄さに徹してくれればなどと思う。こんな感覚は女性が徐々にある男に対する感情が醒めていくのと相似形なのかと思うと少し泣けてしまう。でもやはりおもしろいことには変わらない。わりと話の展開はワンパ。わが朝でこんなもんが流行しているとはけしからん!ぷんぷん→やってみたらよかったわーという。しかし文体が肝心ですからね。

 

耳そぎ饅頭 (講談社文庫)

耳そぎ饅頭 (講談社文庫)

 

 

キャスサンスティー

レッシグ先生からの流れで気になっていた。ので読む。ナッジの話です。自由意志とはなにかという話につながります。サルトルカミュと対談してもらいたい感じ。

一番記憶に残るのは、人は好きなものを選択するが、選択したものを好きになる。という話。そしてその選択はどのようにその環境がデザインされたかに極めて大きく左右される。こういう話を読むと人間は滑稽で哀しいものだと思い、また自分の悩みなどはちっぽけなものであると感じる。

翻訳はあまりこなれていない感じ、追跡としてあるところとかは明らかに追認とすべきだし…

それはともかく選択肢が多いということは必ずしもいいことではない。人生は有限であるし、自分の資源をどこに注ぎ込むか。自分の専門外のところはデフォルトルールに委ねことは経済的である。能動的に選択することで何が得られるのか。能動的選択をすること自体に価値があるのか?結局人間は何のために生きるのか。

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

 

 ローランビネ

結構前に買って、途中まで読んで他の本を読まなければいけなくなり、中断してしまった小説。面白く一気に読んだ。バルガスリョサが激賞するだけはある。ナチの高官ハイドリヒ暗殺についてを書くことを書く小説。僕はそもそもこういった8 1/2的というかメタフィクションものが大好きで大好きで、わたしが今為していることはなにかということに対して少なくとも自覚的であろうという姿勢を極めて尊重する。(だからおれはネット界隈でしばしば見かけるメタいということば遣いに反発する。それはしばしば単に設定や現実の作者の事情に触れる発言に対して発せられるから。それは単に楽屋落ちにすぎないのである。メタフィクションとはそこで触れている題材の問題ではなく態度の問題だろう。まず貴様らは田園に死すを、蒲田行進曲を見よ)

めちゃくちゃ面白いが百年の孤独級ではない。しかしゴングール賞をとったジョナサンリテルをディスりまくるのはおもしろい。逆に読みたくなる。

(既に起こったことを)書くということに対するジレンマが表現されるクライマックス、これはひとつの発明。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

 

 

HAPPINESS IS a WARM PUPPY......?

仕事帰りホームで電車を待っていると婆がぶら下げたるトートバックが眼に入る。

そこにはスヌーピーを抱き締めているあの女の子と件の文字が並んでいる。と一瞬、スヌープの人格、パピ格を無視し、ある一定の体温を持つ哺乳類あるいは肉塊と扱うような非パピ道的文言にやや憤慨するも、一拍おいて考えるにこれはこの作品がもつニーチェ的真のニヒリズム、もう一度と生を力ずく肯定する極めて明朗、高貴で美しさを表現しているのだと得心し、快く家路についた。

帰宅、この文章を書くにあたりググりて曰く、Happiness is…というのは作中にもある有名なセリフとわかる。

そして生まれ変わってラッパーになったらきっとスヌープパピードッグというMCとして活躍しようと誓うポエおじであった。


Snoop Dogg - My Medicine ft. Willie Nelson

スヌープさんがアメフトのコーチやるやつネトフリにあってマイリスにいれたけど見てなかったなあ。たぶんきっとおもしろいとおもう。

『レヴェナント』感想

バードマン大好きマンの感想。

ネトフリにて

一度死んだ男がひたすら生きて生きる。

ソリッドで非常にしんどい西部劇。クマもすごいのだが、そのあとがまあよくもまあとしかいえない。横になりながら見ているとグラス同様しばしば睡魔に襲われるのだが、完全に眠りにはつくことはなく、見続けた。もう俺は一度死んだから何も怖くないというセリフはよく聞くがこれほど説得力があるのはそうないだろう。ああ確かにお前は一度死んでいたなという。

寒さをしのぐ方法がすごいですね。さばいてね。確かにあれはあったかそう。孤独のなかで様々なものが聞こえ、見えてくる。

フィッツジェラルドの言うこともわかるんだよな。たしかにブリンクしてたし、あんなになってたら普通死ぬとおもうよ。それに頭の皮はがれてるしさ。トムハーディだとは全然わからなかった。ブロンソンしかりいい役者だ!もちろんレオさんも

フィッツジェラルドにトラップを仕掛けるときに木を削ったり(死んだふりがなんたらというのは伏線はってたし)、あの火をつけるところとか、そういう道具を使うさまがいい。

ラストの方へ一気に加速するところはすごくいいです。(仙豆でも食ったかという回復力はおいておこう)そして最後のデュエルからの…

すぐ死ぬとかいっちゃだめですね。ラストバトルもなんというかしぶとさがいい。馬のなかに入ってでも生き延びなければ。

イニャリトゥ万歳。なんかスカイリムやりたくなる。

みんなではじめるデザイン批評 (感想とメモ)

わりとさらっと読むタイプの本

デザイナーに対して

①反応型フィードバック:場当たり的、感情的

②指示型フィードバック:ロジカルな説明のないもの、しばしば個人的または職能的マウンティング含む

ではなく

③クリティカルなフィードバック

が必要。

まあ当たり前ではあるが、しばしばこれは時間的制約等で忘れてしまうことがある。

前提としてデザインにあたりペルソナ、シナリオ、デザイン原則、ゴールを明確化すること

このような分類を明確にもっていることは備忘録として有益

またこのような批評に誰をどのようにいつ参加させるかということ適切にデザインする必要がある。リモートワークをする人のコラムにあった興味深い意見に、リモートワーカーはだらしない恰好のまま仕事をするのではなく、自分への評価に対してパラノイアっくになり仕事中毒的になる。というようなのがあった。同じ職場などで顔を合わせれば直接的に仕事と関係のないちょっとしたやりとりが生じることで緩和されていた疑心暗鬼が生じる。デザインへの批評もその人間のデザイナーとしての利用価値の判断として聞こえてくるなどということ。

アプリケーションのデザイン、紙面のデザインにせよそれを批評する環境をデザインすることも同様に重要。

その他

デボーノ博士「6つの帽子の思考法」など場合によっては批評の場で強制的に役割を定めたり、時間制限を設けるなどしてもよい。ただしこのやり方は人によっては幼稚と捉えられる場合もある。

本書のチートシートもあるので用法用量を守って使ってねということ

みんなではじめるデザイン批評:チートシートダウンロードページ | 株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

 

みんなではじめるデザイン批評―目的達成のためのコラボレーション&コミュニケーション改善ガイド

みんなではじめるデザイン批評―目的達成のためのコラボレーション&コミュニケーション改善ガイド

 

 

ふとした連想

結構時間空いてしまった。

なんとなしにゆらゆら帝国を聞いていてアニマルコレクティブの名前が浮かぶ。そこでこのふたつの名前でググってみるとアニコレ来日時に対バンしてたのがわかるとなんか、あ、あってましたみたいな謎の安心感覚えるみたいな。これは久しぶりにリーガエスパニョーラを見てこの主審の名はうーんフェルナンデスボルバランと口に出したらその後実況の答え合わせにより正解だったことがわかるみたいな嬉しみにやや似ている。あるいはネットフリックスとspotifyに加えdaznに入ってしまったが、この費用は依然キャリアに払っていた金額と現在のMVNOの料金の差額でコンペイセイトされるとおよそ所帯じみた現実性に立脚した思考もあえてとることができると確信できた時の安心感にもほど近い。

しかしながらフェイスブックの通知によりあのこが写真をアップしたことを知り、その顔をみるともはや現実には彼女と近づくことはないのであろうなという悲しみがその安心感にヒビをいれる。

などとひとしきりポエムって今日は終い。


iri 「Corner」 Music Video

Youtubeでレコメンドされただけどこの子すき