横浜トリエンナーレ最終日

そういえばと思い、いった。

3会場まわれるやつ買った。

昔バッタがインターコンチにぶら下がっていたのを思い出す。あれはもう20年くらい前か。しかもあいつは下向きだった。ぶら上がってはなかった。

こういうイベントはもっと街にあふれだしててほしい。石内都さんのは馬車道駅にあったけど、正直そんな力入ってない感。

現代アートってそこにもうあるってわかっていると、はあそうですかという感じにしかならず、おれからしたらいきなり横からぶん殴ってほしいわけだ。

なんじゃこれはああああというのがあまりなく。

ポジなことを言っておくと富山妙子さんはちょっと暗い感じあるけどめっちゃ好きでした。丹羽良則さんの「自分の所有物を街で購入する」はなんかずっと見ちゃった。こんなんレジの金が合わなくなるから迷惑行為でしかないのだが、なんか面白いよね。資本主義社会に物申す! バチーン!! みたいな感じではなく、ちょっと小馬鹿にする、だけどそもそも自分自身が大馬鹿だよみたいなのりは愉快です。それでこれ見てたら横浜美術館ではほとんどスルーしてた両替をし続けるやつとか水たまりをすすって横に移すやつとかもこの人やーって自然と分かった。そういうのって一つアーティストとして強みだよねと。

あと青く囲まれた映像みるとこは人が溢れてて何回か覗こうとしたが、諦めた。

そのほかではやたら大井競馬場のフリマ推しの人がいて、そこで買った絵にワサビ書いて売ってますというのがツボだったというか親近感みたいな、そんな感じ。

ただ己の感受性不足もあってか、全体的にしょぼめだったかなというのが正直な感想。もっと街全体を揺さぶってほしいと私は希望する。

 

レイナルド・マーカス・グリーン『ボブ・マーリー ONE LOVE』感想

映画をほぼ見ない生活からの揺り戻しか先週に続き映画館へ、レゲエにはうっすら興味を持ってたくらいの人間の感想。

映画のつくりとしてはわりとスタンダードな感じ。象徴的なできごとやキーワードを抑えながらもあまり奇を衒ったことはせずボブマーリーを描くことに徹し過剰にドラマチックにし過ぎない点は好感。ロバート・ネスタ・マーリーという素晴らしい人がいたということが少しでも多くの人に伝わる。このミッションが達成されるのが最も貴いことであり、己の才覚を示す必要はない。

好きなシーン

リタが来てボブが書いてる曲をきいて怒ってるみたい、私はあなたのラブソングが好き、撃たれても愛の歌を歌うことを忘れないでというところ。すべては愛のためにという言葉が浮かんだ。これはFFTの最終チャプターの章の名前です。と書こうと思ったが正解は「愛にすべてを」だった。「すべては愛のために」はbeyond the bordersというエチオピアとかカンボジアを舞台にしたアンジェリーナ・ジョリーが主演の映画の邦題みたい。もしかしたらハイレセラシエの話も出るかも?

あともうひとつはExodusのジャケットを決める件。グラフィック担当?のネビルは一度いろいろ要素を盛り込んだデザイン案をボブに自信満々でボブに提出するがなんかちげえなあと言われていた。そのあとにこの案を持ってくる。

Exodus -Hq- [12 inch Analog]

クリスじゃないほうのレーベルの人?に宗教映画観たいでボブの写真もないし若者は好かないとマーケティング的視点で否定されるが、ネビルがボブに促されてデザイン意図を説明してしぶしぶかもしれないがこれが採用される。ボブもジャケットでアルバムが売れるのか?と言ったいたが、マーケティングなんてものは消費者のケツを追っかけるスケベ心に基づく下等な振る舞いでしかない。

もう一個あげると、たしかExodusをつくり始めるところでボブが上の階から降りてくる。曲が始まってボンゴ的なものをウェイラーズのメンバーが叩き出すシーンが創造の決定的瞬間みたいな感じがして好き。

ファッション

いちいちかっこいいなあ。女性陣の鮮やかな色彩もいいし。ボブがパリでリタに詰められてるシーンでウェスタン風の肩回りがひし形のモチーフで飾られているシャツもいい。たぶんこれはボブがちょっと調子こいててジャマイカにいた頃のアティチュードから乖離してきているということを含み込んでのチョイスのような気もする。ぶん殴られてもいいからあのシャツほしい。

着こなしも含め無理なくそれぞれの生活に基づいていて、その中でも審美眼を働かせている、そういうのが格好いいと思う。生活感あるおしゃれが一番良い。

 

 

一番最近見た音楽の自伝的映画は2pacのこれだった。もう6年前だということに驚愕した。ボブの亡くなったのと同い年の自分。今見たらまた感想変わるだろうか。

『オールアイズオンミー』感想 - 人生をガチれ

ドレッドヘアには銃弾耐性あることを覚えておこう。

ジョナサン・グレイザー『関心領域』感想

The Zone of Interest 原作小説はマーティン・エイミス

アウシュビッツ強制収容所と壁を隔て隣にすむルドルフ・フェルディナンド・ヘス※とその家族の物語

※副総統とは別人のヘスであることに注意

生物はそれぞれ生存のために情報を取捨選択して環境世界を築く。すべてを拾っていては生きていけない。

壁の向こうに見える人間を効率的に焼却する赤い炎に焦点を合わせてはいけない。うめき、叫びに耳をそばだててはいけない。しかし無意識に蓄積された人々の運命の重低音がヘスに、われわれに吐き気を催させる。

人間はいかに生きるべきか、環境世界を多重化し、更新し続けることしかないのかもしれない。

マシャード・デ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』感想

ブラジル文学って読んだことないなあと思い、読んでみた。

率直に申し上げると、あまり刺さらんかった。

現代の日本人30代弱者男性になぜ刺さらんか

これは1881年の作品である。小説を読むときに何を期待しているのか。奇想天外な思想、日ごろ見かけない奇妙な人々、目もそむけたくなるような残虐な行為、偉大な英雄の活躍、詩人の発する霊妙なことば……

いずれにせよ日常生活では出会えない何かを求めている(もっとも惰性で読んでいるという場合も多いかもしれない)。

この点において主人公=語り手が提示する価値観は比較的現代の日本人と親和性が高い。いわゆる”弱男”にもなじみやすいはずだ。本小説は不倫日記といった趣で、文体は口やかましく書き手の存在を色濃く感じさせるものである。19世紀のスタンダードな教養小説的な趣きを持ちつつ、それに対するアンチテーゼを孕んでいる。

この時代のブラジルの上流社会に属し、容姿もある程度恵まれていて、知性もある男性が独身を貫き、子供もないというのはかなりの例外的存在だろう。こういった属性は我々にとって共感を得づらいのは言うまでもない。だがそれでも何か今まで知らない世界や考えが知ることができれば興味深く読むこともできるだろう。

この小説はアンチクライマックスなつくりになっており、不倫をしているにもかかわらず決定的な破局にもいたらないし、激烈な恍惚を描くわけでもない。

ショート動画、サッカー試合の90分は長すぎる、モトgpもスプリントレースが設定される。そうした時代においてコマ切れの章設定もかなり現代的な感覚と思える。

まちの情景を鮮やかに描くこともなければ、人間の表情を克明に描くわけでもない。なにか具体的な描写がないように感じる。それは意図的なものだろうが、成功しているといえるのかはわからない。唯一具体性を持っているのは作者の心理ということになるのかもしれない。

事件がない、あるいは事件が生じているのにもかかわらずそれを劇的に捉え、再構成するという力に欠けている。のっぺらぼうの日常が広がっている。

それは我々に日常に近似している。

過去の新奇性は現在の陳腐さになる

19世紀の小説家、例えばディケンズホーソーン。彼らへのアンチテーゼとはなり得るだろう。ではポーやメルヴィルに対しては? 彼らのほうが一層アヴァンギャルドだったのではないか。何かへ物申すことは、その批判対象であった何か自体が古ぼけていくのとともに、アウトオブデイト。そうした脆弱性を孕んでいる。

とはいえ、時の洗礼を乗り越えうる作家はどれほどいるのか。ガルシアマルケスボルヘス、バルガス・リョサ、間違いなく時代を越えた作家だろう……だが待ってほしい彼らは20世紀の作家だ。

22世紀の人間には彼らの作品はどう見えるのだろうか。私のマシャード・デ・アシスへのまなざしとは違うのだろうか。21世紀の弱者男性にはまるでわからない。

 

 

安田峰俊「『低度』外国人材 移民焼き畑国家、日本」感想

例によってキンドルアンリミにて。

現代の奴隷制と名高い技能実習制度で来日した外国人たちを追う。

かつて中国人が主に実習生として日本に来ていたが中国の経済発展とともにベトナム人がメインストリームとなった。日本に来た彼らベトナム人の事例を主に紹介してくれる。彼らは単純に哀れで狡猾な日本人に搾取される対象ではない。時にたくましく、愚かな人間である。同じベトナム人からしても共産圏の教育や情報の不足からか、知的好奇心に薄く、行く先を自ら考える力をもたないと感じるようなものもいる。

たしかにこの世は弱肉強食、それはごもっとも。しかし中国人にとって日本が魅力的でなくなったように、いずれベトナム人にとっても日本は魅力的でなくなるだろう(現時点で魅力を感じない、実際に来て感じなくなった人も多い)。情弱をだまして搾り取る商売は短期的にはうまいかもしれないが、未来はない。新たな価値を市場に提供できないものはいずれ退場するしかない。

あとがきでは著者の率直な感想が述べられる。接触頻度が高い対象には好意をいだきがちだということ。日本という国が魅力的ではなくなってきていること。相対的に自国より金が稼げるから来る。そうした外国人が増えている。それは日本に固有の魅力が存在していないということもあるし、個別の対象をきめ細かく見つめることができる感受性を持つような人間はより魅力のある場所にいきがちだということを示している。

この国は順調にいけばますます経済的に衰退するだろう。それだけではなく文化的にもいっそう魅力がなくなっていくのではないか。10年、20年後この国がどうなっているのだろうか。

国の心配をする前に己の身を心配をせよと言われればそのとおり、日々精進。

 

田渕直也『ファイナンス理論全史』感想(承前)

ブラックマンデー、1987年10月19日何が起きたのか。

その前週、米国株価は10%の下落と雲行きが怪しかった。だがこの日だけでダウ工業株20種の平均株価が22.6%も下げた。これは正規分布を前提とすると6*10の97乗とビッグバンを何回か繰り返しても起こり得ないような確率になる。これは確率がとても低いということ以上に正規分布で株価のうごきを捉えるという考えが見当違いだということを示しているのではないか。なおかつこれほどの下落の原因となったといえるような明確な事件もなかった。

しかしこのような事態が起こりうることはフラクタルの研究者であるブノワ・マンデルブロがすでに示していた。バシュリエの理論をもとにしながら、彼は価格変動の分布を正規分布ではなく、安定分布であるということを明らかにした(安定分布正規分布 )。著者はこれを花粉のブラウン運動観察において、花粉が大きく動いたら水温があがるようなモデルと例える。きっかけはたまたまであるが、それを呼び水に振れ幅が増幅される。

ということで正規分布が想定するよりも値動きは頻繁に極端にうごくことがわかった。だが実務上リスク管理の仕方が根本的に変わったわけではなく、極端な事例について標準偏差ボラティリティを通常時より大きくするといったある意味場当たり的な対応でブラック・ショールズモデルは温存された。

リーマンショックによって現代ファイナンス理論の限界が示される

サブプライムローンの説明は省くが、市場が効率的であるのは限られた局面であるということ、デリバティブ商品や証券化の深化などファイナンス理論が生み出したリスクヘッジ商品がかえって事態を深刻化させた。

1日の下落幅はブラックマンデーのほうが大きかったが、リーマンショックではより長い期間株価は乱高下を繰り返した。

ここまで何度かしめされたようにファイナンス理論におけるリスク管理策は平常時はよいが緊急時の備えはあいまいで恣意的運用になりがちなものである。そのなかでJPモルガンのジェイミー・ダイモンは市場が浮かれているときも厳格なリスク管理を行い、危機を乗り切った。

信用取引における追証リスク管理のための損切などなどこうした取引の仕組みや各取引の基本的戦略が広まれば広まるほどちょっとした値動きが市場の流れを一方向へ一気に傾かせることになる。すなわち皆が賢くなれば、安全になるのではなくかえって危険が増す可能性がある。市場の原理はランダムウォークではなくカオス理論によって解明できるのかもしれない。

ではいかに市場をわたり歩くべきか。

ダニエル・カーネマン、エイモス・トベルスキーは行動心理学を金融市場に適用し、市場の効率化されていない部分を示した。

また超ひも理論の研究者ジェームズ・シモンズはや数学とテクノロジーを駆使して最強のクオンツファンドを作った。秘密主義なので推測にはなるが、市場の小さなアノマリーを見つけ大量の取引を素早く行い利益を積み重ねる。勝ちの確率は数パーセント上回る程度であっても試行回数を極めて高めることで利益を確実なものとする。

なんやかんや書いてきたが素人はインデックス投資して寝てるのがやっぱりいいんじゃろう。あとはお小遣いで暗号通貨買ってずっと握ってるのもまた一興という感じだろうか。やっぱり知らない分野の本を読むことは楽しいことだ。

 

書け書け書け書け、ホームやぞ?

とりあえずの小説の冒頭を書き出してみた。1000字弱書いてそこからプロットを考えてみようというところ。だがこのまま成り行きまかせの場合、酔っ払いがいつもの飲み屋にいって管をまくというだけの話になるのは必定、いかに自己評価甘目な自分とてそれのみで強度を保てるとは思えない。もっとも本音のところでは最終的に酒を飲んで近所を徘徊するというだけでひとつ話を成立させられるようになりたいという思いはある。

もちろん最初に書く小説は、戦略的な姿勢をとるのではなく、己の実存を賭して砕け散る、そういうことも必要だろう。だがその一方ある程度のエンターテインメント性は保ちたいと思う冷めた心もある。それゆえ現状からなにか意外な要素の接合を加えたいと思う。そうこうもり傘とミシンだとかとんかつとヒップホップみたいな。あるいはジャンル小説的な要素もあってもよいのではないだろうかと。手触り的には、ふわっとした軽薄さと重さというか仄暗さみたいなものを両立させたいのだが、そうした文体的なところ以外の要素における意外さみたいなものを加えたいと思っている。

なんにせよ完成までもっていくことを目標にこのブログを利用していく。

 

youtubeで聞き取りやすいラッパーとして挙げられていたマスタエース、聞きながらこれを書いた。たしかにわかりやすいし、かっこいい。


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