マシャード・デ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』感想

ブラジル文学って読んだことないなあと思い、読んでみた。

率直に申し上げると、あまり刺さらんかった。

現代の日本人30代弱者男性になぜ刺さらんか

これは1881年の作品である。小説を読むときに何を期待しているのか。奇想天外な思想、日ごろ見かけない奇妙な人々、目もそむけたくなるような残虐な行為、偉大な英雄の活躍、詩人の発する霊妙なことば……

いずれにせよ日常生活では出会えない何かを求めている(もっとも惰性で読んでいるという場合も多いかもしれない)。

この点において主人公=語り手が提示する価値観は比較的現代の日本人と親和性が高い。いわゆる”弱男”にもなじみやすいはずだ。本小説は不倫日記といった趣で、文体は口やかましく書き手の存在を色濃く感じさせるものである。19世紀のスタンダードな教養小説的な趣きを持ちつつ、それに対するアンチテーゼを孕んでいる。

この時代のブラジルの上流社会に属し、容姿もある程度恵まれていて、知性もある男性が独身を貫き、子供もないというのはかなりの例外的存在だろう。こういった属性は我々にとって共感を得づらいのは言うまでもない。だがそれでも何か今まで知らない世界や考えが知ることができれば興味深く読むこともできるだろう。

この小説はアンチクライマックスなつくりになっており、不倫をしているにもかかわらず決定的な破局にもいたらないし、激烈な恍惚を描くわけでもない。

ショート動画、サッカー試合の90分は長すぎる、モトgpもスプリントレースが設定される。そうした時代においてコマ切れの章設定もかなり現代的な感覚と思える。

まちの情景を鮮やかに描くこともなければ、人間の表情を克明に描くわけでもない。なにか具体的な描写がないように感じる。それは意図的なものだろうが、成功しているといえるのかはわからない。唯一具体性を持っているのは作者の心理ということになるのかもしれない。

事件がない、あるいは事件が生じているのにもかかわらずそれを劇的に捉え、再構成するという力に欠けている。のっぺらぼうの日常が広がっている。

それは我々に日常に近似している。

過去の新奇性は現在の陳腐さになる

19世紀の小説家、例えばディケンズホーソーン。彼らへのアンチテーゼとはなり得るだろう。ではポーやメルヴィルに対しては? 彼らのほうが一層アヴァンギャルドだったのではないか。何かへ物申すことは、その批判対象であった何か自体が古ぼけていくのとともに、アウトオブデイト。そうした脆弱性を孕んでいる。

とはいえ、時の洗礼を乗り越えうる作家はどれほどいるのか。ガルシアマルケスボルヘス、バルガス・リョサ、間違いなく時代を越えた作家だろう……だが待ってほしい彼らは20世紀の作家だ。

22世紀の人間には彼らの作品はどう見えるのだろうか。私のマシャード・デ・アシスへのまなざしとは違うのだろうか。21世紀の弱者男性にはまるでわからない。