『暴力の哲学』感想 

酒井隆史著/河出文庫

キング、マルコムX、ファノン、ガンジーフーコー、ソローなどを参照しながら、映画、サッカー、ヒップホップなどのキャッチ―な例も交えて展開される熱い本

細かい章分けは略すが、以下のような構成

第一部 暴力と非暴力

第二部 反暴力の地平 主権、セキュリティ、防御 

非暴力直接行動は「波風をたたせる」もの

キングなどが行ったシットインやデモはある争点について等閑視しつづけていた社会に対してその争点を直視させ、対処せざるを得ない状況に持ち込むことを目的としている。

……「敵対性(antagonism)」と暴力とをひとまず区別しなければなりません。あるいは敵対性を戦闘性(militancy)などという言葉におきかえてもいいのですが。現在、敵対性それ自体が暴力と等しいものであるようにみなされる傾向があるようにおもいます。なにかいまあるシステムに対して「波風をたてる」こと自体が、ほとんど犯罪のようにみなされ、ときに「テロ」とすらみなされる傾向です。この傾向は「テロとの戦争」とも決して無縁ではありません。…

 葛藤や紛争それ自体を、社会のなかにくり込んで発展してきたのが近代社会の展開だとすると、いまこの状況が大きく変化しつつあることを「テロとの戦争」からみてとれます。いわゆる「市民社会の衰退」、「媒介の場の消滅」といわれるような状況です。このような状況がとくに進化しているがゆえに、少なくとも他の先進国以上に日本では葛藤や摩擦そのものが暴力的なものとみなされる傾向が強まっているといえるでしょう。 p.43

次第にアメリカの資本主義体制が諸問題の根にあるとし、各地の闘争を促進したキング、彼へのアジテーター、エクストミストというレッテルに対して

そもそもイエスも、パウロも、ルターも、リンカーンも、ジェファーソンもその時代においては「過激主義者」だったではないかとして、こう述べます。「問題は、われわれが過激主義者かどうかではなく、どういう種類の過激主義者になるかということです」……

キングからするならば、暴力を控えるということは敵対性を激化するということになる。ここがポイントです。敵対性と暴力を区別しなければ、結局、暴力に直面しても聖人のようにふるまえ、というたんなるモラル論、あるいは宗教論に帰着してしまうおそれがある。非暴力直接運動とは、より大衆の力を強化するために、要するに、よりラディカルにやりたいために暴力を控えることです。 pp.45-46

一方しばしば対照的にとらえられるマルコムXだが著者としては彼らの言動を総合してみればそれほど異なるところではない。双方とも従属的地位に貶められていた民衆の憎しみに詳しかった。特にマルコムは民衆の憎しみを怒りに転じさせることができた。怒りは個別具体的なものを対象とする憎しみがもつ射程を越え、根本的な体制へと向かう。ネーションオブイスラムのブラック・ナショナリズムネーションステートの別様のあり方にすぎず、マルコムが途中離脱したものそのためである。オルタナティブな主権を設定するのではなく、脱主権を目指すことがよりラディカルな問題解決方法である。

平和は別の手段をもってする戦争の延長である

そしてフーコーニーチェ)を主に引きながら権力を暴力と弁別していく。権力とは同一の場に複数の人間が存在するときに生じる力関係の配分であり、動的な諸力の作用関係である。権力をモノと考えてはならない。フーコーにとっての権力について著者は以下のようにまとめる

  1. 権力とは戦略的に行使されるゲームである。
  2. 権力は他者に直接・無媒介に作用するのではなく、現実の行為に対して、現在あるいは未来に起こりうる行為に対して作用を及ぼす。
  3. 支配する者が「強い者」とはかぎらない。
  4. 権力は①逆転する諸力の関係②奪取される権力…
  5. 権力は自由無しにはありえない/可能な乗り越えとしての批判

このあたりはニーチェの貴族/奴隷、獅子/ロバ/小児の議論を知っていればわかりやすい。権力のゲームに転覆をもたらすのは体制にとっては存在しないものたちを含むplebeである。

しかし体制は根拠のない悪しき恐怖、パラノイアックな恐怖を活用して権力を強化し転覆を阻む。体制にとって「テロリズム」はなくなる必要はなく、フーコーのいうように「権力は失敗して成功する」。統治形態としてのテロルを活用している。

またテロリズムというのは元々ジャコバン派の国家統治体制を指していたことに注意。

土地を喪失した民衆はギルドや家族等の中間集団の存在が希薄になるなかで無媒介に国家や企業の力にさらされる。そうした中サパティスタ民族解放軍は自らの消滅を目的として蜂起する。

ここでまたひとつ弁別する必要があるのは非暴力/疑似非暴力である。波風が立たない状態というのが国家による暴力の独占や不当な行使を背景に保たれていないか。すなわちニーチェの言うロバ的な「さようさよう」という無力な現状の肯定と区別しなくてはいけない。

 

暴力の哲学 (河出文庫)

暴力の哲学 (河出文庫)

  • 作者:酒井 隆史
  • 発売日: 2016/01/07
  • メディア: 文庫
 

 

本書内でもあったが、民主主義とは多数決のことでも選挙のことでもない。間接民主制というのは現状やむを得ず行っている代償行為でしかなく、体制側にとっての疑似的な平和維持装置として便利であるにすぎない。真の民主主義は人間が本来持つ生命力を発揮し、自治独立した生活を行うことである。そのためには民衆は議論をし、連帯しなければならない。などと言うとどこの赤い人ですかなどと言われそうだが、そういった言動こそ疑似非暴力状態を愛するものの行いで批難対象だ。バカの一つ覚えのように棄権するならば選挙へ行けなどといった言説を繰り返すのはシニシズムとしかいえず、自らの生活にもとづいて思考し行動しなければいけない。その上で投票をしたければすればよいが、なにも考えずにあまつさえ消去法などと言って現状維持に加担する必要はない。そのような行為がもっとも民主主義を毀損する行為である。

といったマジレスを引き出す良書です。

次への読書

ベンヤミン「暴力批判論」

マルコムX自伝

向井孝「暴力論ノート」

・ソロー「市民の反抗」