オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』感想

光文社古典新訳文庫、仁木ひとみ訳、キンドルアンリミテッドにて

概要

ドリアン・グレイ:美しい若い貴族

バジル・ホールワード:新進気鋭の純粋な画家

ハリー・ウオットン:上二人より年上の、皮肉家ないし偽悪家

この3人を主要人物とする象徴主義的傾向の強い作品。主人公のドリアンがいかに変化を遂げるのか/遂げないのかということに焦点を当てる一方バジルとハリーは対立する極として不動である。弱SF要素(既存の訳語を当てるのであれば少し不思議といった塩梅のもの)を持つ物体があり、これが物語の眼目、マクガフィンとして機能する。これをある事件をきっかけにほこりをかぶった使わない部屋に覆いをかけ主人公は隠ぺいする。

結末の倫理的審級

ラストはあっけない。え、これでとたぶん大方の現代日本人は思うのではと。これまでの悪徳への報いを十分に受けていないと感じるだろうと。悪人は苦しんで死ぬべし。こうした創作上の倫理観というのはこと「マーケティング」を意識する、せざるを得ないような資本を投入した映画などではわりと厳格に守られている。自分も映画は最近めっきり見ないが、その影響を受けている。しかし別に現実には悪人は苦しんで死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。今際の際に己を悪行を悔いるかもしれないし、悔いないかもしれない。そうした意味ではこのラストはこの観念的な小説のなかで珍しくリアリティのある選択をとったといえるのかもしれない。

んーでもやっぱり、阿片窟で呆けたように醜く老い、恥辱にまみれ、最後には美醜や名誉といった観念さえ失い忘れられていくべきではと思ってしまう。

なんかワンスアポンアタイムインアメリカをまた見たくなってきた。