時のオカリナとムジュラの仮面

それぞれDS版をクリア

時オカは64当時もやっていたが、井戸の底が怖くてやめた記憶がある。子供のころは暗闇を相当恐れていた。

時オカは3Dアドベンチャーゲームの基本フォーマットとなった画期的な作品であることは言うまでもないが、自分にはムジュラが激烈に刺さりまくった。正直ゼルダに限らず謎解きというのがあまり好きじゃない。制作者意図のメタ読みをしてうまくレールに乗れるかどうかでしかないと感じてしまう場合が多いし、これにアクション要素が絡むと少し操作をミスって(しばしばカメラアングルが悪かったりで)足場から落ちたり水流に流されたりして正解ルートから外れてやり直しとかになるとイライラがやばい。そして謎が解けたところで達成感というよりももうこれに付き合わなくていいんだという解放感があればまだしもso whatみたいなだからどうした徒労感しか残らないときもある。

ムジュラでもイラつくときは何度かあったがあとでいろいろみるとDS版は64より親切になったところがあるようで堪忍袋の緒は無事だった。 

プレイヤーの知識の蓄積と死に覚え

3日間ループの中でプレイヤーはいろいろと試行錯誤する。注意深く進めていればゲームオーバーになることはほぼないが、時間切れになることはたまにある。次にもう一度やれば最適化とまでは言えなくともある程度効率化されてなんとかなる。

TPSとFPSにおいてゲームにおける語りの手法が明らかに異なると感じるのはこのときだ。FPSであれば(一応は)主人公とプレイヤーは一体化されている。あまり界隈に明るくないので間違っているかもしれないが、FPSの場合なぜ死んだのに生よもう一度とやり直せるのか特に説明がない場合が多いと思う。みなさんわかりますよねこれはゲームですよ。FPSはプレイヤー=操作キャラと画面上で明示されているからともいえるのかもしれないが、そうした説明がないのは2Dプラットフォーマーの大半もそうだろうから他に理由がありそうだ。たぶんプレイヤースキルへの依存度が高いものほどわざわざそうした理由付けを要しないということなんだろう。プラットフォーマーシューティングゲームでは残機とはなんだという問題がそもそもある。あいつは転生したのか、クローンなのか? これへの回答は黙ってやれ、これはゲームだ。ということで、あるいはアーケードゲームであればお前の投入した硬貨の有効期限だということだろう。

これに対してTPSはある程度語りを重視したゲームということになるだろう。そうすると必然なぜ死んで生きかえり得るのかという説明が求められることもある。例えばフロムゲーなんかは説明がゲーム内の理屈でされている。

とここまで書いて気づいたが別にムジュラもゲームオーバーになった際の説明はない。だがなぜ我々がこの世界に関する知識を先んじて得て、より適切な行動に至ることができるのかという点がゲームシステムとして出来上がっている。生よ、もう一度。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。

仮面/誰かに成りすますこと/世界を救うこと

ゲームをプレイするときわれわれはしばしば超人的な能力を得て、またしばしば世界を救う。このことをお面システムはよく表現している。だが限定的場面でのみ有効なお面が多いのは残念なところでもあるが、なかなかこれ以上のことを求めるのは現実的でないこともわかる。住民によってはつけるお面によって反応が変わるところもあるが…

住民たちがリンクにお面を渡すことで浄化・解放されるというのは象徴的で仮面はTPOにあわせた単機能的なものであるがこれを譲渡することで自らが解放される。もっともわかりやすく描かれているのはポストマンだ。そして鬼神のお面は今まで集めたお面を月の子供たち=お面やに譲渡することで得られる。鬼神リンクとは成長した(あるいはし過ぎた?)リンクの姿である。今まで集めたお面の重力を離すことで力を得る。そしてお面屋は別世界へ去っていく。

どうしても被りもので力を得るというとHotlinemiamiを想起してしまうがどちらもゲームシステムと語り、プレイフィーリングがシンクロした神ゲーでmiamiの作者は影響を受けているのだろうか。

時間的制約のなかで

クリアしてからいろいろ漁っていたが、

社長が訊く『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D』|ニンテンドー3DS|任天堂

限られた期間、資源の必然性から生まれたことがわかる。追い込まれることで脳髄の鋭敏さが研ぎ澄まされる。まるで3日目の夜をダンジョン終盤で迎えたムジュラのプレイヤーのように。