松本卓也『人はみな妄想する』感想

基本的な語彙についての知識を前提としているラカンの入門書。まったくラカンのことを知らない人はワンクッションはさんでからのほうがよいと思われる。

前提

DSM精神障害の診断と統計マニュアル)を偏重する業界への反駁を動機としてラカンの思想的変遷を紹介している。

著者に倣い、私がこの本を読んだ動機を示す。精神病者神経症者ではおそらくなかったと思う)と一定期間対峙した経験があり、その症状の謎を知りたいと思っていた。ジジェクが好きでラカンのことはある程度学んだつもりだが、実践家の立場による意見を知りたかった。というのが大きな理由。

DSMというのはある症状(たぶんサントームではなく)を示すものに対してはこういった対処をすればよい(主には投薬)といったもので、精神分析のように病理のメカニズムを解きほぐすのではなく、対処療法的態度で病者に対峙することである。これはあらゆるものを定量化し、統計学的に分析するといった資本主義的あるいは「科学的」態度なのである。

ラカンの歴史的意義

ラカンという人物はソーカルドゥルーズ=ガタリによって価値下げされたという認識をされているかもしれない。だがラカンの示すトポロジーなどには衒学的な意図が漂うところがあるのは否定できないがそれによって彼の著述をすべて破棄するにはおよばないだろうというのが著者(と僕)の主張である。

ドゥルーズらの否定はラカンの思想的変遷を意図的に無視している部分がある。ラカンは考えを臨床の経験に基づき更新しており、最終的にはドゥルーズ的な考えに近づいている。精神病への診断は似たところであるものの、それに対する姿勢が少し異なるといった程度の話だろう。

アンチオイディプス

すべてをエディプスコンプレックスに還元するフロイトの考え方には当然反発が生じていた。ラカンフロイトの正当継承者といえるが、エディプスコンプレックス至上主義はフロイトの夢であるとラカンはした。エディプスコンプレックスはある時代における主流の共同幻想であり、絶対的なものではない。フロイトは症例分析において主に神経症を対象としていた。また時代的な制約もあった。ラカンはどちらかというと精神病を対象としており、フロイトを精神病に対峙した人間として更新したものといえる。現代においても父の名を大他者としたものたちは圧倒的多数を占めるだろうが、それは決して絶対的なものではなく他のシニフィアンによっても代替可能である。

だいたいの人間は神経症

ラカン精神病者神経症者を予備面接において峻別することを終生重視していた。患者を前にして境界例と認定する精神科医が多くいたが、それらを混同することは実践上、症状を悪化させることにもつながり、対処法も異なるため正しく分類することが重要であると考えていた。精神分析家に大いなる知恵があることを想定することは神経症者においては症状を緩和することにつながるが、精神病者においてはよいことではない。

多くの人間たちは神経症者傾向にある。大文字の他者(なかでもほとんどの人間は父の名)を疑うことなく受け入れている(あるいは受け入れすぎている)。

資本主義社会(兌換貨幣制)のなかで生活していると否応なく父の名を受け入れざるをえなくさせられるだろう。もっとも共産主義ならそれを回避できるのかといえばそうではなく、単に別の父の名を受け入れさせられるだけであろう。

金を稼げ、毛を生やせ、毛を脱け、歯を正せ、痩せよ、こどおじになるな、子を産め。街を歩き、電車に乗ればこういった社会的に正しい審級が、広告その他のメディアを介して圧力をかけてくる。おおくの人間はそうした主張を消極的にではあっても受け入れている。積極的に受け入れている人間はこのようなイデオロギーイデオロギーとして受け入れ、それを逆用し金を稼ぐ。消極的に受け入れるものたちがもっとも救いがたく、いわば彼らは肉屋を支持する豚どもである。

自閉症という希望

神経症よりである一般人は世界把握を隠喩によって為す。自閉症者は隠喩による世界把握が「正しく」機能しない。ラカンは思想の思想の発展過程においてパラノイア、スキゾフレニーから自閉症者に主な分析対象を移行させており、自閉症のあり方に新たな世界のあり様の希望を託す。享楽(あるいはその残滓)にしか人間の個性はなく、シニフィアンの連鎖を断つ(断たせられる)ことでそれが仄見える。蚕がメタファーとして本文で示されるが、世界から断絶され(し)自らを消費させ(し)、シニフィアンと化さされる(する)こと。

ラカンは晩年「父の名」ではなく「父の名たち」と複数化、非定冠詞化する。このような態度はドゥルーズ的、リゾーム的なものと言わざるを得ないだろう。

ラカンは、精神分析は終わりあるもの、ガタリドゥルーズ)は終わりなきものと考えていた。ラカンは生で対峙するには恐るべきものである享楽、あるいは固有のサントームというのは遡上することですべて解消できるものであると考えているのではなく、うまくやっていくもの、すなわちそれこそがその人間が持つ固有の特性と考えている。その諦念は極めて豊かなものであると私は思う。

 

 

D・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』を読む(アクション・登場人物・文体)

アクション

プロット:何が起こるか

アクション:それがいかに起こるか。

特に初心者はアクションが少なすぎるより多すぎるほうがよい。

殺人、裏切り、航空機事故などプロット上の重大事件は基本的にアクションシーンとして描写したほうがよい。理由なく伝聞など間接的に描写するのは複雑になりがちなアクションシーンを描く自信がないからではないか? アクションシーンにおいてもプロット全体における原則「主人公を徹底的に苛め抜く」を適用するとよい。ひとつ困難を解決したら更なる困難が襲い掛かるといったように。

文体の切り替え

アクションシーンを描写する際、ほかの部分と文体を変えることも効果的である。テンポを上げるため通常より1文、1段落を短くするなどといった方法が考えられる。

タイムパラドクス

実際にはほんの何秒かに起こる一連の行動が、文章にすると長たらしくなってしまうことがある。こうした場合、作家は綿密につくりあげた虚構のリアリティを台無しにする危険をおかしているといえる。というのも、読者がもし実際にはほんの一瞬のことだと気づけば、少なくとも一時的に、読者の作品や登場人物に対する感情移入が、さめてしまう可能性があるからである。ときおりわたしも、長い切れ目のない一文にさまざまなアクションを詰めこんで、読者がこの時間的なずれを感じずに読み飛ばさるように工夫してみることがある。p188

しかしこの手法をとる場合文章がリズミカルでないなどによって失敗する場合がある。

登場人物

主人公の要件

以下の5要素が本文では挙げられている。

  1. 高潔さ
  2. 有能さ
  3. 勇気
  4. 好感
  5. 不完全さ

わたしはより簡潔に「高潔さ(or有能さ)」「不完全さ」の2要素としてもよいと考える。3は1,2によっておおむねもたらされ、4は1,2,5によってもたらされるだろう。高潔さとはその人物を律する道徳観が矛盾なく、読者が行動原理を理解できるということで、結果の予測可能性という点で有能さで置き換えることもできるだろう。また不完全さが物語の原動力となり、かつ読者に親しみを与える効果がある。

性格描写

基本的には具体的な状況に対するリアクションで表現すること。アクションシーンにおいて道徳的ジレンマに陥らせ、その反応を描くなど。「わたしは誠実な人間です」と明言する人ほど不誠実なものはいない。

またこうした描写をするにあたり、登場人物の「身上調査書」を前もって作成してもよい。登場人物のすべてを知り尽くせば実在感が増す。但し常にこうしたものにいえることだが下準備で作った設定は本文ですべて使おうなどと考えないこと。

動機付け

しばしば荒唐無稽と評されてしまう作品はプロットではなく、登場人物の動機に原因がある。本書では以下の要素が挙げられている。

  1. 愛情
  2. 好奇心
  3. 自己防衛
  4. 金銭的欲望
  5. 自己再認識
  6. 義務
  7. 復讐

複数要素を組み合わせ重層化させることを推奨。登場人物の基本的性格と矛盾しないようにする。

文体

会話文

売れる小説の20~30%は会話文。時に間接話法を用いながら省略し、リズミカルに。シーンのプロット上の位置づけも考慮し、差し迫ったシーンではより素早く要点に切り込むなどする。

発話者の表示は絶対に必要なときだけにする。またその際の動詞は「言った」「叫んだ」「答えた」「主張した」など衒いのない言葉で足りる。「身震いしながら話した」「驚きの声をあげた」「躍り上がってよろこんだ」などは不要。こうした文言が必要と感じられるのであれば、会話文の描写が不十分と考えられるので再考すること。

クリシェ

決まり文句は怠惰さの証明。また決まり文句を避ける必要性を感じていてもつい出てしまうことがある。最終稿を上げるさいは改めてクリシェ退治を!

洪水の取材に行かされた新米記者のはなしだ。

何時間待っても現地からの第一報が届かないので…編集長はカンカン…やっとのことで電動タイプが動き出し…情緒的で…新聞記事にふさわしくなかった。最初の文章はこうはじまっていた。「今夜、神はジョンズタウンを裁いている。」(これに対して)編集長は打電した。「洪水はもういい、神にインタビューしたまえ」pp257-258

場面転換

物語を加速させることができる箇所、簡潔に流れるように。不要な描写を避ける。次シーンの予兆をシンコペーションのようにいれてもよい。

語りの視点

初心者は三人称で様々な登場人物の視点を借りながら描写するのが心のうごきも表現しやすくおすすめ。ただし19世紀風の作者自身の声を記すのはよそう。

まとめ

エンタメよりの視点で小説執筆を神秘めかすことなく、率直に教えてくれる良書。もちろん初心者向けの話なので、いずれ守破離と自らのスタイルを作り上げていくとよいだろう。

 

 

 

D・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』を読む(プロット他)

先人に学び初心者は原理原則に従い書け。読者のことを適切考えろ。継続せよ。原則を外すのは経験を得てから。と真っ当なことを言ってるが、次作から具体例を持ってくるのでわかりやすい。少し古い米国のことにつき出版戦略的なところは参考まで

前提となる方針

まずこの本で著者の経験を踏まえジャンル小説作家ではなく形容詞無しの作家になることを勧めている。出版部数という経済面も考慮しているが、何より可能性を狭めてしまうことが理由として挙げられている。短期的には利益を得られることもあるが、力の限界を自ら低く制限してしまうし、他者からも先入観をもって評価されやすくなる。一方でエンタメ性はある程度確保しようという方向性である。

プロットは小説の根幹

ということになるとプロットは極めて重要である。

小説を成功させるコツのひとつは、実生活上のいろいろな経験に、ピリッときくエッセンスを加えて調理するところにある。つまりプロットの枠のなかに混沌とした現実生活をしっかりはめこむことによって、それが意味深い真実の瞬間に結晶されるのである。もしも作家が登場人物たちに全権をゆだねてしまったら、知性という冷静で確実な案内人なしに、作品を書くことになる。その結果は、現実の世界に起こる多くのできごとと変わらぬ、形も意味もない小説ができあがり、そんな小説が多くの読者をがっかりさせるのは目に見えている。p77

登場人物、テーマ、文体も重要な要素であるがまずプロットという骨格をしっかりさせる必要がある。

プロットを組み立てる際現実のできごとを参照するのは構わないが、現実は小説も奇なりが許されるのは現実が現実である故である。小説の帰結は必然的であることが必要。あるいは偶然が必然と一致する必要がある。プロットは骨格であるとともに心臓でもある。己の実存を賭して組み立てよ。また本文執筆にあたるのは完全にアイデアが固まってからとすることは必ずしもない。

書き始め

タイトル

まずタイトルをつけてみる。キーワードを一つ決め、形容詞や名詞、動詞とつなげる。その際相矛盾するような語を結合させるとインスピレーションがわきやすいかもしれない。ある程度の数を無心に並べてから選ぶ。今であればこのシュルレアリスト的手法を機械化してもいいかもしれない。

やはり名前をつけることでものごとが対象化され、執筆へ向かいやすくなるだろう。

冒頭の文

仮でもよいのでタイトルが決まったら今度は冒頭の書き出しにとりかかる。ここもあまり深いことは考えずインスピレーションに身をゆだねて数行打ち出してみる。そこからさらに1ページ2ページと膨らませる。これをもとにプロットを大まかでよいので作る。

冒頭の1節は①謎の提示、②登場人物への興味を呼ぶことが必要である。

例として「三銃士」「若草物語」「オリバーツイスト」が挙げられている。

対話

主要人物(ある程度魅力的なほうがよい)2人をとりあえず対話させてみる。まず人物の特徴を書き出してみる。何を失うことを最も恐れているかなど。またこれらの人物作者自身の代弁者とならないようにする。

魅力的な書き出しとは
  • アクション
  • 鮮烈なイメージ(予兆)

基本的には動きがあったほうがいいだろう。そうでなければ1語もしくは2語程度で言い切れる強い語もしくはイメージを示し、それによって事件などをほのめかすとよい。

時限性をもたせ切迫感を与えてもよい。

リアリティ

超能力者など非現実的なものを出すときはその存在に懐疑的な人物を登場させる、超能力を得るには代償を払っていることを示すなどしたほうがよい。現実にあるものについての細部は全体のグルーブ感に配慮する必要があるが、しっかりと調べるほうがよい。調べたことをすべて使おうとしないこと。基本的にはうまくアクションのなかに溶け込ますこと。

主人公は徹底的に苛め抜くこと。すべては必然性のもと進行させ、最後には主人公が成長する。

(続く)

 

 

P・オースター『幻想の書』感想

妻子を飛行機事故で失った男が、失踪していた無声映画喜劇俳優を追う中で自らの生を再び見出す話

読書体験の寓意

芸術は何かについてのものではあってはならない。芸術は芸術そのものでなくてはならない。主人公は妻子を失い自分の生を見失う。その中でたまたま出会った喜劇俳優ヘクターマン、彼もある事件後名前を変え、己の欲望を抑圧することで自らを罰する。本当の自分の人生を生きるのではなく、その代償行為をもって時を埋める。

しかし逆説的に他人として人生を送るまたは他人の人生を追体験するなかで己の人生を取り戻す。これは読書体験と重なる。

一時自分の人生をやめて(と言って言い過ぎであれば小休止して)己の人生と関係のない話を読む。現実のなかのもう一つの現実なのか、対立するものなのか。染み出しやがて溶け合うものなのか。

生きている人間について書くか、死んでいる人間について書くか

ヘクターマンについて書き上げて忘れたころにそのことについて手紙が来る。

シャトーブリアンに移ろうとしていた時だ。

シャトーブリアンは死んだ人間、ヘクターマンは死んでおりかつ生きている人間

ある時点においては主人公はまだ(辛うじて)生きているほうを選んだ。

シュレディンガーの猫

もし映画を作っても、かりに誰も見ないとしたら、その映画は存在するか、しないか? …カフカは原稿を燃やせとマックス・ブロートに指示したわけだけど…ブローとはそれを実行できなかった。でもフリーダは実行するわ。かならず。ヘクターが死んだらその翌日に、何もかも菜園に持っていって燃やすことになっているの。 pp270-271

 

あれから十一年経って、あそこ玄関に着く前に私が立ちどまって、空の残り半分を見て、大きな丸い月が私たちに光を降らしているのが見えたとしたら? その夜、空に月は出ていなかった、という言葉はやはり真実だろうか? だが私はふり返って後ろを見はしなかった。だから、イエス、その限りにおいては真実なのだ。私が月を見なかったのなら、月はそこになかったのだ。p290

 

豊かな青、Fの瞳の青。よく見ようとかがみ込んだら、石だった。何かの宝石か、月長石か、サファイア、それともただのカットグラスのかけらか。…拾い上げようとしたら、指が石に触ったとたんばらばらに崩れ、濡れたぬるぬると化した。石田と思ったのは、人間の痰だった。…光がそれを貫き、反射がそれを光沢ある青色に変えたせいでしっかり固体に見えたのだ。p379(ヘクターマンの日記)

本作では、ヘクターマンやシャトーブリアンの回想録や映画といった作中作において同じテーマが変奏されながら繰り返し描かれ、互いに響きあう。そしてそれは主人公でヴィッドジンマーにも波及し、ひいてはオースターあるいは我々読者にも及ぶ。われわれが虚構と向き合うとき何が起きているのか。虚構とは現実の似姿なのか。

われわれは現実という幻想を生きている。小説は現実より現実的である。現実は幻想であるということに気づかされるのは現実を離脱したときである。

顔にあざのある女、二重性

いよいよ主人公をヘクターマンに導く女性、アルマがやってくる。彼女は顔にあざがある。バルガスリョサの小説に出てきたマスカリータを思い出した。

本作中ではホーソーンの『あざ』に言及する。アルマはこれに感動し、己とあざは不可分であるということを受け入れるようになる。

俳優、記憶の上書き、再生

結局主人公はシャトーブリアンに戻る。ヘクターマンの映画が示す”リアリティ”とは?

映画は燃やされ、アルマは死ぬ。しかしわずかな希望は残る。小説は読まれるために書かれ、読者を得るごとによみがえる。

 

 

高山宏『近代文化史入門 超英文学講義』感想

中世の終わりころから近世の英文学を非常に広範な視野から眺める。マニエリスムのやり方で様々な糸を紡ぎ合わせ驚きを与えてくれる本。

300年忘れられたシェイクスピア

優れてambiguity=両義性、多義性に富んだシェイクスピアだが、それを嫌うピューリタンの数学者らからなる王立協会の隆盛により軽んじられ、忘れられる。それは口誦文化から活字文化の転換である。劇場封鎖令も出される。ジョンダンも読まれなくなる。

マニエリスム

マニエリスムとは世界が荒廃していく/拡大していき、世界が分断されていく(ように感じる)際にそれでも世界はひとつにつながっているのだということを示す態度。またそのことによってすげえ(ワンダー/ブンダー)と感じさせる。

歌舞伎における「外連」も舞台演劇をはじめ芸術において軽視すべきではないのではないか。

ニュートン光学

ニュートンを読んだ詩人は網膜retinaを意識するようになる。光と色に関する知識を得る。色も細分化して認識するようになる。ニュートン以前の詩には動詞が大半を占めていたがそれ以降は減り、目的語や修飾語が増え叙述的、描写的になっていく。

そのほかトピックス

かなり広範にわたる話でこれらをまとめる能力がない。そのため以下気になったところをピックアップし羅列する。

  • ダニエル・デフォー(1660-1731)の時代はnews/novelの境はあいまいだった。
  • 「ファクト」がラテン語の「作られたもの」という意味から「事実」「確証あるデータ」という意味になったのはOEDによると1632年
  • 推理小説=暗号学=兌換貨幣、デリダの仕事も暗号解読技術
  • ピクチャレスク=ラギッド、日本でいう見切り、英国式造園術、ピカレスクロマン、徒歩蛇行脱線(なんとなくハウステンボスブレイクビーツが思い浮かぶ)
  • 代書屋→小説家、書簡体/覗き見文学、サミュエル・リチャードソン『パミラ』『クラリッサ』。部屋に閉じ込められた女性が日記をかく。(映画『本を読む女』に言及されていたが、最近では『お嬢さん』があった。)
  • 観相学バルザック、本来的に彼はジャーナリスト、『歩行の理論』参照。観相学は人間が密集して生活し都市が形成され見知らぬものとの接触機会が増加したことから流行した。人間を分類する。(最終的には骨相学→優生学に至ってしまう)
  • 分類学はキャビネットオブキュリオシティーズ→博物館→デパートへ
  • バルザックのリアリズム→ドイルの推理小説

「ディティールを積み重ねると、必ずリアリティに突き当たる」というリアリズムの根本の観念は、細かいディティールを積み重ねていけば、必ず犯人に行き当たると信じている探偵の確信とぴったり重なる。推理小説とはつまりメタ・リアリズムなのだ。(pp235-236)

  • 眼科医だったドイルは何かをみれば何かがわかるという人間だった。シャーロックホームズは恐ろしいほどの視力を持っていた優れた観相術家。それが晩年オカルトにはまる。見えないものを見ようとすること。ディテクティブのdetectももとは「屋根のついた建物の屋根をはがす」の意
  • 推理小説の時代のおわり、現象学量子力学キュビズムの起り

博覧強記というのはまさにこのことだろう。あれとこれがこうつながって、へーすごいなーというまさにマリエリスムという感じ。著作は膨大な領域に及ぶのでこれからもちょくちょく読んでいきたい。

 

 

『一揆の原理』感想

呉座勇一著

これの前に勝俣鎮夫『一揆』を読んだ。

呉座氏のこの本はこれまでの一揆研究に付きまといがちだった左翼的イデオロギーからの解放を目指し、そのうえで現代において一揆のあり方を知る意義を捉えようというもの。

例によって読了からすこし間をおいてしまったのでごく簡単に要点をまとめると

・中世の一揆と江戸期の一揆は分けて考えよう

一揆というと百姓一揆が思い浮かぶかもしれないが、中世に寺社が行った強訴がオリジナルである。一門が集い、内裏へ列参して要求をとおす。興福寺延暦寺といった有力な寺社がおこなった。その集団(神輿をかついだりしている)があるエリアまで侵入すると要求を受け入れるといった一種のサッカー的ゲームといえるあり様があった。それなりに武装はしているが戦闘状態に陥ることは少ない。一方で近世の百姓一揆は鎌などの農具は象徴的にもっていることはあるが非武装

また一揆は中世では合法的存在であるが近世では違法とされた。

一揆は革命ではない

上記のとおり武力行使ではないのは

朝廷と大寺社の相互依存関係が理由として挙げられるだろう。延暦寺興福寺園城寺など強訴を頻繁に行う寺院は官寺、すなわち国立機関なのである。…大寺社の持つ経済的特権は、地方行政官である国司やほかの寺社の利権と競合することがあり、大寺社は自身の利権を維持拡大するために、彼らの妨害を排除しようとする。その時に用いられる手法の一つが強訴であった。…強訴する側からすると、ライバルをつぶせれば、それでよいわけだ。スポンサーである朝廷をぶっ壊してしまったら、元も子もない。pp.60-61

体制転換を要求するわけでなく当面の障害を打開するという打算的要求であるのだ。百姓一揆も同様であくまで不当な搾取をする代官を交代させよといった要求である。最終手段として用いられるストライキである逃散も不当な徴税は認めないということであり、適切な納税は許容するという前提で行われる。

すなわち一揆が行うのはデモであり、革命ではない。

一揆の神秘的イメージは捨てよう

上記のとおり一揆は僧侶が一味神水して行うことであり、その際覆面をする、声色を返るその他の儀式故に神性が強調されることがこれまでの研究ではあった。たしかにそれは神威をかりるという面もあったが対外的な広報効果を狙ったり、多人数の参加を得るための同調圧力であったりとやはりこれも打算的な一面があったことを忘れるべきではない。

一揆は契約、人と人の繋がり

武士の結んだ一揆では2人のものもあり、必ずしも集団である必要はない。複数の人員が廻状などの書状や高札などでつながり連帯する。その際儀式のありようは場合によっては変形省略された。本質的にはひとが困難な状況をサバイブするための知恵といえる。それは現代においても別様のあり方で活用できるだろう。

『疫病と世界史』感想

ウィリアム・H・マニクール著、初出は1975年=エイズ発見以前

これまでの歴史学では人間の動向を中心に記述していた。コルテスのアステカ征服における天然痘、はしか、ペストなどが代表例であるが、これ以外にも人間同士の相克は様々な細菌、ウイルスに多大な影響を受けてきた。また本書はミクロ寄生/マクロ寄生という切り口で人間の人間への寄生を病原体の人間への寄生の相似形として理解する。寄生者にとっては宿主を生かさず、殺さずもしくは次の寄生を確保できる程度の適度な移動ができることが好ましい。高温多湿の環境の方が様々な病原体の生存に適しているため、南方への人間の進出は限定的になる。これ以外にもハンセン病結核といった病原体同士の相克もある。

コルテスのアメリカ大陸への侵出において疫病は軍事的成功とともにキリスト教の侵出にも影響を果たした。既に免疫を持つスペイン人と免疫をもたないアステカ人の生存率の差がキリスト教の説得力を捏造する。ヨーロッパにおいてもこの彼岸的宗教は疫学が十分でなく、無力に人びとが死ぬ世界において蔓延する環境にあった。これはインドにおける仏教が旧来の宗教を駆逐したことともパラレルに考えられると指摘する。宗教も人間の精神に寄生する疫病ということができるだろう。同様に芸術も疫病の影響をうけダンスマカーブルのような定番の題材となるといったことはもちろん、人間の無力さに対する眼差しは様々な芸術を規定する基本的要素となる。

18世紀以降、これまではあまり効果的でなかった疫病への対策が医学・公衆衛生観念の発達に伴い、郊外からの流入を前提にせずとも都市人口の維持もしくは増加が可能となった。このため従来は死者があけた椅子を得ることができたものができなくなりスラムが形成されたり、安定した都市住民の出生率の低下を招いたりするだろう。

コロナ時代において日本では特に労働面での儒教的倫理観が無効化される傾向があるだろう。市民革命を為しえぬ社会においては変革は外圧からということだろうが、これが定着するのかは不明だ。