『一揆の原理』感想

呉座勇一著

これの前に勝俣鎮夫『一揆』を読んだ。

呉座氏のこの本はこれまでの一揆研究に付きまといがちだった左翼的イデオロギーからの解放を目指し、そのうえで現代において一揆のあり方を知る意義を捉えようというもの。

例によって読了からすこし間をおいてしまったのでごく簡単に要点をまとめると

・中世の一揆と江戸期の一揆は分けて考えよう

一揆というと百姓一揆が思い浮かぶかもしれないが、中世に寺社が行った強訴がオリジナルである。一門が集い、内裏へ列参して要求をとおす。興福寺延暦寺といった有力な寺社がおこなった。その集団(神輿をかついだりしている)があるエリアまで侵入すると要求を受け入れるといった一種のサッカー的ゲームといえるあり様があった。それなりに武装はしているが戦闘状態に陥ることは少ない。一方で近世の百姓一揆は鎌などの農具は象徴的にもっていることはあるが非武装

また一揆は中世では合法的存在であるが近世では違法とされた。

一揆は革命ではない

上記のとおり武力行使ではないのは

朝廷と大寺社の相互依存関係が理由として挙げられるだろう。延暦寺興福寺園城寺など強訴を頻繁に行う寺院は官寺、すなわち国立機関なのである。…大寺社の持つ経済的特権は、地方行政官である国司やほかの寺社の利権と競合することがあり、大寺社は自身の利権を維持拡大するために、彼らの妨害を排除しようとする。その時に用いられる手法の一つが強訴であった。…強訴する側からすると、ライバルをつぶせれば、それでよいわけだ。スポンサーである朝廷をぶっ壊してしまったら、元も子もない。pp.60-61

体制転換を要求するわけでなく当面の障害を打開するという打算的要求であるのだ。百姓一揆も同様であくまで不当な搾取をする代官を交代させよといった要求である。最終手段として用いられるストライキである逃散も不当な徴税は認めないということであり、適切な納税は許容するという前提で行われる。

すなわち一揆が行うのはデモであり、革命ではない。

一揆の神秘的イメージは捨てよう

上記のとおり一揆は僧侶が一味神水して行うことであり、その際覆面をする、声色を返るその他の儀式故に神性が強調されることがこれまでの研究ではあった。たしかにそれは神威をかりるという面もあったが対外的な広報効果を狙ったり、多人数の参加を得るための同調圧力であったりとやはりこれも打算的な一面があったことを忘れるべきではない。

一揆は契約、人と人の繋がり

武士の結んだ一揆では2人のものもあり、必ずしも集団である必要はない。複数の人員が廻状などの書状や高札などでつながり連帯する。その際儀式のありようは場合によっては変形省略された。本質的にはひとが困難な状況をサバイブするための知恵といえる。それは現代においても別様のあり方で活用できるだろう。