『オッドタクシー』感想

皮肉屋のセイウチのタクシードライバーが繰り広げる日常系と思わせ…という話。タランティーノ的台詞回しにバルザック的な世界においてミステリーが展開される。表現手法の選択に必然性があることはフィクション作品の強度を高める。小戸川という主人公のキャラクターは30、40代の孤独な独身男性には極めて共感ができるだろうし、それ以外のキャラクターもどれも適役であってもキュートな面がある。人間らしい動物たちによって描くという選択によって臭みを感じさせかねないタランティーノ流セリフも緩和され、ほどよい温度感になっている。小戸川は基本的に冷めた態度であるが、それでも感情の機微は巧みに表現され、物語が進展するに従い、友人の医者剛力が言うとおり温度が高まっていく。

昭和のトラビス、令和の小戸川

このような効果をもたらす表現手法も単にその効果を求めた結果ではなく、物語上の必然に基づくものであり、内容と形式が合致している。様々な固有名や、それぞれの登場人物の弱さが現実界への参照項となり、世界の広がりを感じさせる。タクシードライバーは様々な登場人物を登場=搭乗させることができる狂言回しとして極めて利便性の高い舞台装置であり、世界の広がり感がある一方で、奇妙に登場人物たちを吸引する。当初、小戸川は自らを後景に退かせる態度をとるが、次第に主人公たる行動をとる。

タクシードライバーをフィクションの主題材として採用する場合、アメリカ文化の影響を受ける世界においては当然トラビスさんを参照せざるを得ない。各種固有名を出すこの作品においてトラビスは直接言及されることはない。固有名詞を厭わず挙げるこの作品のなかでトラビスには言及しない点はバランス感覚に優れているといえる。自分自身、それ自体に直接的に言及することは下策である。それは態度で示すべきである。

このような注意深い脚本によって小戸川はトラビスに並ぶ2大タクシードライバーに登り詰めた。

景色の変容と失望

サスペンスがいったん解決されると、景色が変容する。それによって若干の失望、魔法が解けた感を与えられる。この脱力は物語的にも正当なものであるともにいかにこの作品の表現手法が適切であったかを理解させるものである。エンディングはラストサマー的な定番といってよいものだが、小戸川のニヒルな(彼は冒険を通じて人生よもう一度と肯定できる真のニヒルな態度を得る)態度にも合致している。

ヒップホップ要素

この作品はアニメの放送予定などを知らずアマプラで目につき一気に鑑賞したが、オープニングで一気に引き込まれる。Pさまというのはすぐにわかるが、スカート(澤部渡)は寡聞にして知らなかった。ほかにもOMSB、VAVAなどサミット連合が絡んでいてよい感じ。

そしてラッパーのヤクザ矢野。韻を踏み続けるが、窮地に陥り…彼のことをワックと我々は断言できるだろうか。

ミステリーキッスもすごくいい。

命名法(追記)

主要キャラの名づけ方法を概観してみる。

小戸川/セイウチ タイトルのオッド、類縁生物のトドを連想させる

柿花/サル 猿蟹合戦における柿を連想させる

剛力/ゴリラ 名は体を表す例

ドブ/ゴリラ こちらもゴリラ、小戸川とは反対に下顎犬歯(金歯)が目立つ。剛力とは別の種族? 恐らく通称

白川/アルパカ このへんにはアルパカはあんたしかいないという小戸川の発言により彼にとっての唯一性を示される

樺沢/カバ この突進力溢れる生物は唯一、名前に生物名が含まれる。第1話の乗客であり、特権的地位にいるトリックスター? と書いて公式の登場人物一覧を見ると馬場(ウマ)がいたことに気づく

大門けんしろう・こうしろう/ミーアキャット 西部警察大門のサングラスと目元の位毛の類縁性 また北斗も連想させるが意味があるかは不明

矢野/やまあらし? とげとげと矢の形状

名の象徴性はまちまちのように思えるがこれくらいのほうが自然な感じは出る気がする。

ノローグ

唯一この作品で自分がマイナスに感じたのは割と前半に小戸川ではない人物のモノローグが1話通じて展開される。最初はせいぜい10分程度かと思ったが延々続く。おれは小戸川であれば全編モノローグも許すが、あいつのモノローグはしんどい。まさに自己愛の強さを示すために必要ということはわからないではないが、純粋にあのノリはややしんどかった。モノローグは自覚的に用いるにしてもかなり取り扱い注意であることがわかる。

 

とても素晴らしい作品である。個人的にはまどマギ級。わたしは小戸川と白川が幸せになることを心から願います。

 


www.youtube.com

『龍が如く7』感想

今更ながらゲーパスにて、シリーズは極1,2、0のみプレイ済。

春日一番という新主人公、組のためといって代理入獄、18年後に恩を仇で返され馴染みない伊勢佐木町へ、どうするかという筋立て。

アクションからRPGへと鞍替えしたが、私的には元のアクションはたいして面白みがあるものではなかったので特にこの点についてはそれだけでマイナスと感じることはない。むしろこのシリーズは意識低くだらだらプレイを推奨していると思うのでコマンド式RPGのほうが相性よいと捉える。その反面、この本作のシステムがあまり洗練されていないことは明らかで、次作以降の改善は期待される。

龍が如くミニゲーム集?

龍が如くにはいろんなミニゲームがある。その他ゲーム(多くはRPG)にもミニゲームがある。

ミニゲームはなぜ「ミニ」ゲームと呼ばれるか。何がミニなのか。

ミニゲームのミニ性を明らかにするのは、それ以外のゲームのゲーム性をアップさせる際にも役に立つはずだ。

①最適解にたどり着くのに時間をそれほど要しない

②ゲーム本編とのつながりが希薄

直観的にはこの2点がまず浮かぶ。

①はプレイヤーに提示される要素がそもそも少なく、かつその要素の絡み合いがない、または薄く、考慮すべき事項が少ないゆえに起こる。故に短期的な満足度は得られることもあるが、それは暫時減少、早々に飽きが来る。

②については他のゲームに触れて比較してみる。たとえばRDRシリーズ、ポーカーではいかさまができ、それが露見、逆上して銃を抜くこともできる。本編と地続きなのである。これはもはや私はミニゲームとは呼ぶことはできない。本編で示される主人公の態度、ゲーム全体の雰囲気が「ミニゲーム」に反映されているか、反映されているのであればもやはそれはミニゲームではない。

こういったことはミニゲームだけに留まっていればさして問題はないが、結局のところこの辺りはゲームへの制作態度が露わになる部分でもあり本編にも影響が及ぶことが多いのではないかと思う(レッドデッドリデンプション2においてもすべてのミニゲームミニゲームを超えているわけではないことも承知してはいる)。

龍が如くで言えば、台パン、ゴト、積み込みといったいかさまや愚行が働け、それをNPCにとがめられたり、主人公のステータス値に反映(しばしばマイナス)されたりすればより面白いのではないかと思う。もちろん様々な外部事情が生じるのは理解するが。

龍が如くにおけるミニゲームも本編との絡みがあるではないかという反駁も予想されるが、これは明確に否定できる。龍がにおけるこういった本編とミニゲームとの接続はすべて保留行為にしかなっていない。○○には××が必要であるのでこれに勝利せよ。といったことだ。もっともゲームはすべて結論の保留で成立しているのだと言ってしまえばそれまで、ただそれを言うともう戦争なわけで、ここではそれこそ保留としたい。

龍が如く7は他シリーズと変わらず多くのプレイヤーは寄り道をするだろう。ミニゲームもするだろう。そして本編にもどって戦闘をしていると思う。この戦闘もミニゲームみたいだと。少なくとも私は思った。

ここでもう一点留意する必要があるのはスーパーハングオンなどもともと独立のゲームが埋め込まれているということだが、ここでは本編との有機的な接続をもっていないということでミニゲームと見做してよいと思う。

本編から浮いたミニゲームが増えれば増えるだけ作品の緊密さは減少する。また、うちわネタ的なものも多く、弛緩した雰囲気を醸す。記憶が定かでないところも多いので不正確かもしれないが、豪華になったゼロヨンチャンプという印象が昔からこのシリーズにはある。偏見だと思うがシェンムーよりむしろゼロヨンチャンプなのだ。

中途半端なドラクエ要素、パロディはやるならやり切れ

本作はドラクエについて作中人物が直接に言及したり、その他にもドラクエを参照していることがしばしばある。

ストーリーとしても冒頭に勇者にしか抜けない剣が登場、戦闘突入時に主人公の妄想or白昼夢?で敵が異形化するといったことがある。特に前者は筋が悪く、ラストバトル(ほぼイベント戦闘)では徒手を強いられ、エンディングに至る。

剣を抜いたのであれば、剣は収めなくてはならないだろう。開けたら閉める、幼稚園で習う。120%の好意でとらえれば、春日の剣収まってませんよ、8に冒険は続くということかもしれないが、たぶんこのあたりの要素は開発途中で放棄されたのだろう。

結局のところはキャラゲー

主人公の春日は陽気で話が通じる。これまでの桐生と比べると普通よりの人間で、桐生ではありえなかった展開もあり、万人受けするタイプである。ほかの主要キャラクターも嫌味のあるものはおらず、この点に関してストレスはたまらない。一方で敵キャラはやや弱い。ラスボスがあまりに人間的なのはよいが№2、3が戦闘的にも弱いがキャラも弱い。やや唐突に出てきた前作キャラ達が戦闘時強いのは話の筋として道理だが、本作の敵役は正直霞んでしまう。

結局のところ龍が如くは観光ができるキャラゲーなので、もう少し街の人びととの絡みもほしかった。

選挙戦時吹き出しで街の声が上がったりしたがもっと絡みが欲しい。Ubiのゲームなんかである地域を制圧したら住民が戦闘を支援するといったものがよいかはわからないが、ストーリー的にも街への愛があったわけだからもう少しなんかしたい。

また味方キャラとの絡みはいろいろと用意されていたが、狭い通路なんかで味方キャラにぶつかった際に「うおお」みたいになるのがやや心苦しかった。レッドデッドにあったような一言声掛けできて、それに加えてどいてもらえるといった要素があると嬉しい。

 

徐々に不満点ばかりのようになってしまうが、プレイ時はそれほど感じなかった。ブログを書こうとどうしても意識が高そうな感じになってしまうのは人のサガ。わたしのような酒を飲みながらやるような意識低い系ゲーマーにはおすすめができる作品。

ちなみにわたしは趙くん推し。

『反穀物の人類史』 感想

ジェームズ・C・スコット著 立木勝訳

近年隆盛の人類史本のなかでも最もキャッチ―ではないかと思われるこのタイトル、文庫化されれば爆売必定な感もある。

著者は政治学がメインフィールドで本書冒頭で門外漢からの提言であることを示している。定住化及び採集、狩猟生活からの農業への移行が人類史上の画期的なメルクマールとされることが多いがそれは果たして本当なのだろうかという門外漢ならではの素朴な疑問をベースに議論が展開される。即ち遊牧民/狩猟民/農耕民が厳格に分かれているわけでなく、前二者も次善の策として食糧の栽培もしくはそれに準じた行為があったことが示される。労働集約型の農業は十分な資源がある場合においては労働力に対して得られるカロリーが低い場合が多い。

このように考えるとあまりメリットが少ないように思える農業(特に主食である穀物の栽培)がなぜこれほどまで人類の主要な課題となったのかというと、それは国家の徴税にとって都合がよいためである。

・決まった時期に収穫される=隠匿がしづらく徴税がしやすい(地下茎植物たるジャガイモなどは隠匿しやすい反中央主権的作物といえる。そのなかでアステカやインカは例外的と言え、興味深い)

・一粒が極めて小さく分割が用意=細かい単位とすることが可能で基本単位として便利

このように穀物の栽培は一生活者にとって必須事項ではなく中央集権的権力の要請に基づくものであることがわかる。

穀物の栽培という今となってはかかせないと思われている活動は穀物(及びそれに依存する国家)の必要性に基づいて強いられているものであり、我々はいかにdomesticate(家畜化)されてしまったのかということが理解できる。極めて限定的な都市空間に収容され、繁殖する様は豚、羊といった家畜と相似形である。

このような主張はニーチェのいう人間は約束のできる生物とされてしまったという話とパラレルに理解でき、ニーチェ読者にとっては極めて親近感を得られ、理解がしやすい。

冒頭に書いたこととは反するが本書は地道な例証及びそれができないための推測の積み重ねということで思ったよりはエキサイティングな展開とはならない。むしろそのようなドラマチックさ(定住化、農業の発明)ということを否定しており、現在の人類の生活様式にいたる過程は緩やかながら生存にとっての必要性に基づく日々の生活の累積により形成されたという主張が本書の基底にあることがわかる。

歴史(his story)はわかりやすく、語りやすい事項に基づきかつ、中央集権的なその時代の覇者によって語られる=騙られるということを改めて教えてくれる良書である。

 

 

ようつべを貼りながら好きな音楽を言語化しようとする小修行

日頃より音楽を語る言葉がないなあ、ないなあと己の言語の貧しさを嘆いていたのだがそう思い避けるだけアリ地獄、負のスパイラルパーマなのだよなとハタと膝打ち、いつもキキリリビビィと言いそうになるkiki vivi lilyのライブ動画を視聴しながら筆をこそ取りけり。母音をちょっとすぼませてアタックをまろやかにする感じが好き。同じくらい彼女の歯擦音も美しい。全体的にはとってもポップだがどこか黒い響きが底に鳴っている。

彼女を起点とするとぷにぷに電機はよりストレートにかっこよくアーバンな音で、おれのような陰の者にはおまえどんな面下げてそれ聞いてんの、効いてんのと言われそうでやや所在のなさを感じることもある。iri も少し近いところはあるがもう少し声が男前で聞きやすい。もっともっと男前にするとawich なわけだけどこれはもうだいぶ居心地がよい。この人はライブなんかごらぁおめえらついてきてんのかあごらぁみたいな感じでやばい。

ここでアラスカから海外にも飛べば今一番聞いてるのはGreenteaPeng、ブラックなサウンドなんだけどドアーズ味を若干感じる。 民族音楽×サイケみたいな。あとはIAMDDB、彼女はよりラッパーなスタンスで都会的な感じ。jorja smithも当然好きなんだが、今の気分にしたがうとややスイートすぎるかもしれない。それにちょっと美人すぎる。Alicia Keys級。ラッパー方面ではAUDREY NUNAPrincess Nokiaなんかはなお良き。

英語圏以外ではタンゴ×ヒップホップなYEИDRY, わりとスタンダードな感じなLous and The Yakuzaは見た目に相当惹かれている感があるものの。

先に進めば進むほどことばの貧困に苦しみ、そこで記憶を遡ると宇多田ヒカル、エリカバドゥが根っこのとこにいるということ。

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com


Erykah Badu - On & On (Official Video)

『暴力の哲学』感想 

酒井隆史著/河出文庫

キング、マルコムX、ファノン、ガンジーフーコー、ソローなどを参照しながら、映画、サッカー、ヒップホップなどのキャッチ―な例も交えて展開される熱い本

細かい章分けは略すが、以下のような構成

第一部 暴力と非暴力

第二部 反暴力の地平 主権、セキュリティ、防御 

非暴力直接行動は「波風をたたせる」もの

キングなどが行ったシットインやデモはある争点について等閑視しつづけていた社会に対してその争点を直視させ、対処せざるを得ない状況に持ち込むことを目的としている。

……「敵対性(antagonism)」と暴力とをひとまず区別しなければなりません。あるいは敵対性を戦闘性(militancy)などという言葉におきかえてもいいのですが。現在、敵対性それ自体が暴力と等しいものであるようにみなされる傾向があるようにおもいます。なにかいまあるシステムに対して「波風をたてる」こと自体が、ほとんど犯罪のようにみなされ、ときに「テロ」とすらみなされる傾向です。この傾向は「テロとの戦争」とも決して無縁ではありません。…

 葛藤や紛争それ自体を、社会のなかにくり込んで発展してきたのが近代社会の展開だとすると、いまこの状況が大きく変化しつつあることを「テロとの戦争」からみてとれます。いわゆる「市民社会の衰退」、「媒介の場の消滅」といわれるような状況です。このような状況がとくに進化しているがゆえに、少なくとも他の先進国以上に日本では葛藤や摩擦そのものが暴力的なものとみなされる傾向が強まっているといえるでしょう。 p.43

次第にアメリカの資本主義体制が諸問題の根にあるとし、各地の闘争を促進したキング、彼へのアジテーター、エクストミストというレッテルに対して

そもそもイエスも、パウロも、ルターも、リンカーンも、ジェファーソンもその時代においては「過激主義者」だったではないかとして、こう述べます。「問題は、われわれが過激主義者かどうかではなく、どういう種類の過激主義者になるかということです」……

キングからするならば、暴力を控えるということは敵対性を激化するということになる。ここがポイントです。敵対性と暴力を区別しなければ、結局、暴力に直面しても聖人のようにふるまえ、というたんなるモラル論、あるいは宗教論に帰着してしまうおそれがある。非暴力直接運動とは、より大衆の力を強化するために、要するに、よりラディカルにやりたいために暴力を控えることです。 pp.45-46

一方しばしば対照的にとらえられるマルコムXだが著者としては彼らの言動を総合してみればそれほど異なるところではない。双方とも従属的地位に貶められていた民衆の憎しみに詳しかった。特にマルコムは民衆の憎しみを怒りに転じさせることができた。怒りは個別具体的なものを対象とする憎しみがもつ射程を越え、根本的な体制へと向かう。ネーションオブイスラムのブラック・ナショナリズムネーションステートの別様のあり方にすぎず、マルコムが途中離脱したものそのためである。オルタナティブな主権を設定するのではなく、脱主権を目指すことがよりラディカルな問題解決方法である。

平和は別の手段をもってする戦争の延長である

そしてフーコーニーチェ)を主に引きながら権力を暴力と弁別していく。権力とは同一の場に複数の人間が存在するときに生じる力関係の配分であり、動的な諸力の作用関係である。権力をモノと考えてはならない。フーコーにとっての権力について著者は以下のようにまとめる

  1. 権力とは戦略的に行使されるゲームである。
  2. 権力は他者に直接・無媒介に作用するのではなく、現実の行為に対して、現在あるいは未来に起こりうる行為に対して作用を及ぼす。
  3. 支配する者が「強い者」とはかぎらない。
  4. 権力は①逆転する諸力の関係②奪取される権力…
  5. 権力は自由無しにはありえない/可能な乗り越えとしての批判

このあたりはニーチェの貴族/奴隷、獅子/ロバ/小児の議論を知っていればわかりやすい。権力のゲームに転覆をもたらすのは体制にとっては存在しないものたちを含むplebeである。

しかし体制は根拠のない悪しき恐怖、パラノイアックな恐怖を活用して権力を強化し転覆を阻む。体制にとって「テロリズム」はなくなる必要はなく、フーコーのいうように「権力は失敗して成功する」。統治形態としてのテロルを活用している。

またテロリズムというのは元々ジャコバン派の国家統治体制を指していたことに注意。

土地を喪失した民衆はギルドや家族等の中間集団の存在が希薄になるなかで無媒介に国家や企業の力にさらされる。そうした中サパティスタ民族解放軍は自らの消滅を目的として蜂起する。

ここでまたひとつ弁別する必要があるのは非暴力/疑似非暴力である。波風が立たない状態というのが国家による暴力の独占や不当な行使を背景に保たれていないか。すなわちニーチェの言うロバ的な「さようさよう」という無力な現状の肯定と区別しなくてはいけない。

 

暴力の哲学 (河出文庫)

暴力の哲学 (河出文庫)

  • 作者:酒井 隆史
  • 発売日: 2016/01/07
  • メディア: 文庫
 

 

本書内でもあったが、民主主義とは多数決のことでも選挙のことでもない。間接民主制というのは現状やむを得ず行っている代償行為でしかなく、体制側にとっての疑似的な平和維持装置として便利であるにすぎない。真の民主主義は人間が本来持つ生命力を発揮し、自治独立した生活を行うことである。そのためには民衆は議論をし、連帯しなければならない。などと言うとどこの赤い人ですかなどと言われそうだが、そういった言動こそ疑似非暴力状態を愛するものの行いで批難対象だ。バカの一つ覚えのように棄権するならば選挙へ行けなどといった言説を繰り返すのはシニシズムとしかいえず、自らの生活にもとづいて思考し行動しなければいけない。その上で投票をしたければすればよいが、なにも考えずにあまつさえ消去法などと言って現状維持に加担する必要はない。そのような行為がもっとも民主主義を毀損する行為である。

といったマジレスを引き出す良書です。

次への読書

ベンヤミン「暴力批判論」

マルコムX自伝

向井孝「暴力論ノート」

・ソロー「市民の反抗」

真・女神転生3 HDリマスター 感想

PS4版 ハードクリア

発売後に存在を知るもいろいろとラグいと聞き、パッチをまち、そのすきにずっと積んでた4を終わらせてからやった。相変わらず面白かった。

東京受胎というが示すとおりカグツチに向けた受精レースに介入したりしなかったりという筋立て

ただ主要人物(主要な人以外は滅んでいるのだが)の言っていることは極論過ぎてたいていの人は共感するということはあまりないだろう。しかしこのゲームとってはかえってそれが戦闘・育成という長所を阻害せず魅力につながっている。感情移入してしまうと悪魔合体に現を抜かすことができなくなってしまうだからこれでいいのだと思うが、古参のメガテンファンはそうじゃないと思うとこかもしれない。あくまでゲームとしての面白さに資することを優先している、そんな感じ

結論に至るまでを小説以上にとことん遠回りさせられるけど終わってみたらなんだったんだろうとなりがちなRPGにおいてひとつよいバランス地点にあると思った。

 

悪魔ということでKOJOE 回る

www.youtube.com

 

新宿ということで漢 出てきたあとの

www.youtube.com

『ラカンはこう読め!』 感想

やっぱり話が面白いジジェク先生、そのうさんくさい風貌は我々の幻想を逆用するための確信的なものと改めて感じる。私は彼を信用している。

冒頭にもあるようにラカンを各種作品等に適用することをもってラカン入門とする本書。ある程度ジジェクについて知っている人にはおなじみではあると思う。ビデオマニアなところをいかんなく発揮し、映画等を参照してとてもキャッチ―で非常にエキサイティング。

分析家は経験主義者ではない。様々な仮説を駆使して患者を探り、証拠を探すわけではない。そうではなく、分析家は患者の無意識的欲望の絶対的確信(ラカンはそれをデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に譬えている)を体現しているのだ。ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。「分析家は私の症候の無意識的な意味を知っている」と仮定したときにはじめて、患者はその意味に到達できる。フロイトラカンの違いはどこにあるか。フロイトは、相互主観的な関係としての転移の心的力学に関心を向けた(患者は父親に対する感情を分析家に向ける。だから患者が分析家について語っているとき、「じつは」父親について語っている)。ラカンは、転移現象の経験的豊富さにもとづいて、仮定された意味の形式的構造を推定した。

転移は、より一般的な規則の一例にすぎない。その規則とは、新たな発明というのは、過去の最初の心理に戻るという錯覚的な形式においてのみなされるということである。(pp.55-56)

転移というのはわれわれの読書体験についてもいえると常々思う。われわれは(じゅうぶんに慎重な態度を取らない限りは)己の知っていることを目の前の本に仮-託する。われわれはあまりにしばしば知っていることしか知ろうとしない。そして知っていることを改めて知ることに快楽を覚える。この偉大な?自家撞着に無頓着でいてはならない。

ロールズに関する言及も興味深い。

ジャン=ピエール・デュピは(幼児が母親の乳房を吸う弟に対する嫉妬に関する)この洞察にもとづいて、ジョン・ロールズのせい議論に対する納得のゆく批判を展開している。ロールズ的な正しい社会のモデルにおいては、不平等は、社会階層の底辺にいる人びとにとっても利益になりさえすれば、また、その不平等が相続した階層にはもとづいておらず、偶然的で重要でないと見なされる自然な不平等にもとづいている限り、許される。ロールズが見落としているのは、そうした社会では、かならずや怨恨の爆発の諸条件を生み出すだろうということである。そうした社会では、私の低い地位は全く正当なものであることを私を知っているだろうし、自分の失敗を社会的不正のせいにすることはできないだろう。

……自由市場資本主義における成功あるは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは性向)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義の最も重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。 (pp.68-69) 

資本主義の限界ということはしばしば言及されるが、上記の考えにもとづくと資本主義というのは限界があるからこそ生き延びる。

 文学あるいは映画では、(とくにポストモダン的テクストでは)われわれが見ているのは虚構にすぎないことを思い出させる自己反省的な忠告(リマインダー)が挿入される。

…われわれとしては、そうしたやり方に対して、いわばブレヒト的な威厳を与え、疎外の一ヴァリエーションだと評価したりするのではなく、そういうやり方そのものを否定すべきである。彼らのやっていることは、彼らの主張とは裏腹に、〈現実界〉からの逃避であり、幻覚そのものの〈現実界〉から逃げようとする必死の企てにすぎない。〈現実界〉は幻覚的な見世物の姿をとって出現するのである。

われわれがいま直面しているのは、幻想という概念の根本的両義性である。一方で、幻想は〈現実界〉との遭遇からわれわれを保護する遮蔽幕であるが、最も基本的な形の幻想そのもの、すなわちフロイトが「根本的幻想」と呼んだ、主体の欲望する能力の最も基本的な座標を提供するものは、けっして主観化されることなく、機能するためには抑圧されたままでなければならない。

…現実への覚醒は夢の中で遭遇する〈現実界〉からの逃避だとというラカンの警告…究極の倫理的課題は、真の覚醒である。それはたんなる睡眠からの覚醒ではなく、むしろ覚醒しているときにわれわれをより強くコントロールしている幻想の呪縛からの覚醒である。(pp.103-105)

ここで言うブレヒト的な威厳というのは第四の壁の破壊であるが、そもそもブレヒトの意図は観客が虚構をあくまで虚構であるという安寧の中での観劇を許さないようにすることにある。夢は現実より現実界であるが虚構も常にそうであるわけではない。単なる幻想の強化装置に陥ってしまうことがしばしばある。ジジェクが本文でも挙げているようにスクリーン上の俳優が観客に話しかけたり、舞台上でニワトリを殺したりすることで現実界と向き合うことができるわけではない。これらの行為は虚構世界が現実という幻想に降りてきているだけだ。そうではなく、観客を舞台上に引きずり込む必要がある。第四の壁を破壊したところで劇場を総想像界化しては意味がない。とはいえマニエリスムがマンネリに転化するのはいつかと問われれば答えに窮するのだけれど。ただ発信者、受け手がどのような姿勢で臨んでいるのか、虚構のマッサージ的用法もしくはクラッシャーあるいはデバッグ的用法なのか。

それと現実界について重要なことはカントの物自体とはことなるということだ。それは人間の知覚にも依存する。

5章、6章あたりについては多分続く