『資本主義と奴隷制』 感想

エリックウィリアムズ著 中山毅訳

ちくま文庫表4やあとがきにはプロ倫へのアンチテーゼだっみたいに書かれているが本文中にはあからさまに党派的主張がされているわけではなく、非常に地道な例証が積み上げられている。学芸文庫とはいえ若干のエンターテインメント性を求めてしまうものとしては地道すぎるほどではあるが、このようなスタイルも込みでアンチプロ倫と言いたくなるのはわかる気がする。

主にイギリスの奴隷制奴隷貿易に関する本。彼らが(様々な言い訳を加えながらも)いかに金儲けを第一に行動してきたかが示され、奴隷労働からの搾取で蓄積された富により繁栄し、産業革命がなされたかがわかる。そして奴隷貿易奴隷制が廃されたのも結局は本国の利益を害するようになったためなのである。すなわちある一定の段階を越えると自由民労働に比べ搾取されるだけの奴隷労働の能率は相対的に劣るようになる。かつ奴隷制と一体の植民地支配は保護貿易を前提としており、有力な対抗勢力(キューバ・ブラジル等の別の奴隷制)に対して劣勢になると本国の利益と相反するケースが生じる。こういった綻びが拡大すると奴隷制によって不利益を被る者たちを中心に「人道主義」的思想を錦の御旗としながら本国の利益を改善するため結局は奴隷制は廃される。

資本主義者は、初め西インド諸島奴隷制を奨励し、ついでそれを破壊するのに手をかした。イギリス資本主義が西インド諸島に依存しているあいだは、奴隷制を無視ないし擁護した。イギリス資本主義が西インド諸島の独占を障害とみなすようになったとき、資本主義者は、西インド諸島の独占を打倒する第一段階として西インド諸島奴隷制を破壊したのである。かれらにとって奴隷制は相対的なものであって絶対的なものではなく、多様な解釈を容れる余地のあることは、1833年以降、キューバ、ブラジルおよびアメリカ合衆国奴隷制にたいする、かれらの態度にはっきり現れている。かれらは、砂糖のあるところにかぎって奴隷制を認め、砂糖樽の周囲だけ詮索しては競争相手を嘲り罵った。かれらは、道徳を基礎として関税率を定めることは拒絶したけれども、税関には必ず説教壇を設け、荷揚げ監督に奴隷制反対論をぶたせたのである。(p.279)

人間の行動原理としてまず実弾、経済が最優先される。人種・民族・思想等は結局のところ上部構造で後付けにすぎない。実業界も聖人も金儲けが第一であり、それゆえマルクスは哲学者から経済学者になるのである。

地道な本書だが12章奴隷と奴隷制は制度としてではなく奴隷を主体に語っており熱い部分だ。

これ以外の論点としては白人奉公人制、インディアン奴隷制との対比についても前半でふれられる。あとがきにはエリックウィリアムズがどのような経緯でこの本を書くに至ったかが少し書かれている。インテリ黒人の典型的板挟み状態にあった彼はこの本を書き、トバコの首相となる。

サッカー好きにはプレミアの冠スポンサーたるバークレイズはもともと奴隷制で儲けていたことを知り、ヒップホップ好きにはジャマイカやバルバドスの歴史の一部を理解するために、大学生にはプロ倫とあわせて読んでほしい。

 

 

資本主義と奴隷制 (ちくま学芸文庫)
 

 

 

MPC IMPACTとSL-1200の肖像 ほか

音楽の本、2つ読みました。

MPC IMPACT!テクノロジーから読み解くヒップホップ

副題のとおりAKAI MPCの前史といえるドラムマシンやサンプラー及びロジャーリン、マイク・マシューズらを追うところから始め、機材の観点からヒップホップ史を辿るという意欲作。インタビューなど取材もよくしてあり、面白くずいずい一気に読める。

日本人である著者がどのような視点であればヒップホップを掘り下げられるかと悩んだ結果、ヒップホップ機材三種の神器は日本製ばかりじゃないかということでその中からMPCを選んだという。アート(技術=芸術)の語義に照らしても当を得たもので、また著者の熱量の高さが伝わる。

あのタッチパッドはスティービーワンダーの言葉がきっかけでできたとは知らなかった。

Technics SL-1200の肖像 ターンテーブルが起こした革命

一方こちらは純粋にSLの開発史ということで興味ある人には面白いと思う。

と急に熱量下がるがまあ面白い事には違いないkindle unlimitedにあり。

 

なんとなく最近聞く音楽を貼っておこう。

 


UMI - Live Show (^з^)-☆ *1


Continuum Lyric Video


Jorja Smith: NPR Music Tiny Desk Concert


Hito No Inai Shima

*1:Cool Girl Vibes

『私はなぜ書くのか』マルグリット・デュラス 感想

 デュラスのインタビュー本

全12節。幼年期、パリ時代、ひとつのエクリチュールの道程、テクスト分析のために、文学、批評、登場人物のギャラリー、映画、演劇、情熱、ひとりの女、場所

和訳は数冊読んでかなり好きな作家だけどもどういう人かは全く知らなかった。テレビに出たり、ジャーナリズムにも関わり、わりと世間を騒がせることもあるタイプだったようだ。

テレビも結構見るようで、サッカー、特にプラティニは好きだったようで対談もしているらしい。非常に読んだみたい。注にそのときのプラティニのコメントがあるので引用してみる。

マルグリット・デュラスがなにものかを知らなかった、その知的名声を意識していなかったという意味で、ぼくによってこのインタヴューは、なにか全く非現実的な体験だった。いや、感銘は受けなかった。文壇のことはまったく、あるいはほとんど知らなかったので、文壇におけるこの人物の重要性をわかっていなかったからだ。そのかわりに、興味津々だった。サッカー界の外の人間と会うのはいつでも大歓迎。デュラスの場合、お釣りがくるくらいだった 。彼女が一度もサッカーの試合にいったことがないのを確信していたからね。インタヴューで記憶に残っていること、それは彼女が選手としてのぼくに対してとったアプローチだった。彼女は天使(アンジュ)のような精神の純粋さについて話し続けた。サッカー選手を語るために、ひとつの言葉「天使人間(アンジェロム)」まで考えだした。ぼくのことを青いユニフォームを着た天使のように考えていた……あれはおもしろかった。いままでにないこと。スポーツのまったく新しい見方だった。彼女は雰囲気、ボールに対する人間の関係、ぼくの家族についてさんざん話した。その質問にはたびたびほろりとさせられた。イタリアでプレイしていたとき、大勢の作家が僕について長い記事を描いた。でもそれはみんなサッカーに関心のある知識人たちだった。彼女ほどサッカーを知らない人間から質問を受けたことはなかった。

 一方デュラスはそのインタヴュー番組のなかで

世界における私の仕事、それは世界を見ること。サッカーのピッチ、それは他者があなた自身と等しい場所。対等の立場で。(……)サッカーのピッチ、選手たちがプレイするこの場所、彼らが閉じ込められている場所、それは観客が観ている劇場、対決の場所、したがってすでに政治的な場所だわ。あなたが掛け金を手にしたとたんに、たとえ平凡な勝利の掛け金であっても、あなたはすでに、より平凡ではない敗北の掛け金――侮辱による敗北の正当化――を手にすることになる。もはやプレイするためにプレイするのではなく、ひとりの敵としてプレイする。そして敵を汚すためなら、敗北を正当化するためなら、なにをしてもいい。このおぞましい行為からはだれも逃れられない。もちろん、スタジアムで起こることの政治的な翻訳は存在しない。けれどもすでに、ひとつの反映、人種差別がある――どんな言葉を言ってもいい。でも、あなた、あなたは一度も差別したことはない。わたしはそう確信している。 

 そしてなんとこの対談は戯曲化されているらしい。 

ところで純文学とエンタメ小説は何によって区別されるかという問いがよくある。それはレーベルによって規定されるに過ぎないというのも一理あるが、個人的には作家がその実存を賭しているかということに尽きるとおもう。実存を賭すってなんやねんと問われれば、生活と仕事が切断されていないことと答える。そして仕事とはレイバーならぬワークである。本来的な意味でのアマチュア精神があること、つまるところデュラスのように最終的には愛に還元される。

とあまり本題と関係ない引用ばかりだが、この本はタイトルのとおりなぜ彼女は書くのかということが明かされる、というと言い過ぎではあるもののまあほの見え、ベトナムでの疎外、パリ・フランスでの疎外が大きな原動力となっているのを感じる。

また作家、哲学者等との関係も垣間見ることができる。ラカンは正直何言ってるかようわからんとき多い、サルトルカミュはあんまり好きじゃない、アルトーは功績を認めつつもあまり興味ない、そしてバルトについては以下のように触れている。

――同性愛について、どうお考えですか?

デュラス 似た者どうしの愛には、対立するふたつの性だけに属する、あの神秘的な普遍の広がりが欠けています 。同性愛者は自分の愛人以上に、同性愛を愛するのです。これが、文学……プルーストを考えれば充分ですけれど……文学が同性への情熱を異性愛に変換しなければならなかった理由です。はっきり言えば、アルフレッドをアルベルティ―ヌに。

 すでに言いましたが、このためにロラン・バルトを偉大な作家とは考えられないのです。なにかがいつも彼を制限していた。彼には性におけるもっとも古い記憶、つまりひとりの女を性的に知ることが欠けていたように。

作品紹介も巻末について200ページ強で読みやすい。

原題はLa passion suspendue

 

私はなぜ書くのか

私はなぜ書くのか

 

『アラブ、祈りとしての文学』感想

「小説、この無能なものたち」という章で始まるアラブ文学研究者岡真理さんのエッセイ。主にパレスチナの小説を紹介しながら小説に何ができるのかを探る。

サルトルが嘔吐はアフリカの飢えには無力であると言った。あるいはスーザンソンタグを迎えたあるシンポジウムで浅田彰クリシェ的に「21世紀になって明るい未来が開けると思ったら」と水を向けた際、彼女は果たしてそんなことを思った人はいたでしょうか、とたしなめた(この言葉というより彼の実存が彼女にそのようなリアクションをとらせたのかもしれないけれど)。

これらのことに対し岡真理はあえてナイーブにも小説には何かができるのではないかという姿勢をとる。あまりに厳しい現実の前には「明るい未来」を信じざるを得ず、そうでなければ自爆に至ってしまうと。

 

p55

世界から忘れ去られ、苦難に喘ぐ人々がもっとも必要としているもの、言い換えるならば、世界に自らの存在を描き込み、苦難から解放されるために致命的に必要とされるもの、それは、「イメージ」である。他者に対する私たちの人間的共感は、他者への想像力によって可能になるが、その私たちの想像力を可能にするのが「イメージ」であるからだ。逆に言えば、「イメージ」が決定的に存在しないということは、想像を働かせるよすがもないということだ。

 

p225

サバルタンが語ることができない(スピヴァク)のは、サバルタンが語っていないから、ではない。語っているのに聴き取られないからである。あるいは、語っているのに、その言葉が知識人によって横領され、勝手に表象されてしまうからである。だから、サバルタンの声を聴き取ろうと思ったら、知識人は学び知った知識を忘れ去らなければならない。分有している権威を捨て去らなくてはならない。独房の冷たい地べたに座って、女たちの語りに虚心に耳を傾けなくてはいけないのである。

 

オルタナティブを提示すること、またはイメージを他者と共有することで現実に影響を及ぼすためのある核を提供すること。

ある事象を数値に還元せず、まずは具体的に描く。さらには個別具体的事象から抽象に移ろうさまを捉えたり捉えなかったりする。そうしたことを私は小説に期待している。

 

アラブ、祈りとしての文学 【新装版】

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  • 作者:岡 真理
  • 発売日: 2015/11/25
  • メディア: 単行本
 

 

『ジャン=クロード・ヴァン・ジョンソン』感想

ダービーで自分を信じ切れず、中途半端な勝ちに終わり、目黒記念でそれを膨らまそうとしたところダミアンレーンが2着して水泡に帰した男の感想。

ウォッチリストにずっと入っていたのをやっと見た。これも池添さんとレーンさんのお陰です。

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この作品はジャンクロードバンダムによるレスラーであり、マトリックスであり、8 1/2、そして蒲田行進曲あるいは田園に死すである。世間から忘れ去られつつある「ムービースター」が銀幕とともに裏家業に復帰し、己を見つめなおす話。

セルフパロディは元ネタを知らずとも楽しめるように配慮されている。最終話の格納庫の扉にあるうってつけの突起には爆笑間違いなしで、なおかつ感動する。パロディに対して感度が高い作品ということは自然、メタファーも豊富になる。ドッペルゲンガー的フィリップ(=劇中の役)が死ぬこと。ビデオ屋でヴァネッサに修行を付け、(彼女はポップコーンをつくる!)そして修業が完了するということは自分の現状を受け入れ役者としてはビデオテープの中に退くことまたは主役級ではなくなることを意味する(jcvdはどちらかというとDVDというよりビデオテープ的存在だろう)。またJCが孤児という設定、これは典型的「ムービースター」は個人的な出自とは切り離される=親がいないということを示している。このような過程を経て本来の自分を取り戻し、老いを受け入れ平穏に暮らすはずだったが……という無間マトリョーシカ構造

メタフィクションとしてスタッフはやるべきことはやったといえる。だがもちろんJCというスターが存在しなければ成立しないというのはウェザーコントロールバイスなどという「映画」的なものを信ずるドラガンの言う通り。

生きる喜びとは限界を越えた股裂きの痛みなのかココナッツウォーターのべたつきか、あるいは三冠馬を素直に見届けることなのか。

JCの戦いは明日も続く。

Hotline Miami 2とピグマリオンとジョンウィック2

コロナ時代の行動様式ってガルシアマルケスの本にありそうだなって思いながら久々にブログ書く。

Hotline Miami 2

ずっと積んでたのをやっとやった。1と比べて2はかったるいところが多いとは聞いていた。視野外からの射撃がたしかにうっとおしい。

1では主人公=プレイヤーという面が強調されておりそれがシナリオ、ゲーム性とマッチしていた。プレイ=暴力に慣れてくるプレイヤーに対する言及がゲーム内でされていた。一方2は群像劇であり、1の謎を明かすものとなっている。このストーリーはなかなか気の利いたもので、演出もよい。そして最後にはすべて無に帰す。1が刺さりまくってしまった人間としては相対的に評価は下になってしまうが、なお良ゲーではある。

クリア後にYoutubeでスピードラン動画を見たら難易度に関してはやる人がやればあんだけ爽快になるのか、文句を言うのは甘えだったなと思うが私には無理。


Hotline Miami 2: Wrong Number NG+ Speedrun in 33:50

ピグマリオン

バーナードショウの戯曲、光文社の新約がキンドルアンリミテッドにあったので読んだ。言語学者がヒギンズが花売り娘イライザを上流階級の娘に仕立てる話。オリジナルの神話と違うのは自分の理想の女性を作り上げるということではなくあくまで学者としての好奇心に基づくということで、メロドラマではないこと(ヒギンズは理想の女性が母親と公言し、若い娘が嫌い)。これをもとにしたマイフェアレディも今度見てみようかな。たぶんこっちはメロドラマでむしろ神話よりぽいかも。

ジョンウィック2

マイアミからの流れでどちらも2だがこっちは1からと構造に大きな相違はないが勢いが若干足りない(ような気がする、だいぶ前に見たからよく覚えていない)。多分原動力がわんこの恨みじゃないから?

最初のマフィアのおっさんの顔芸が面白い。そういえばこれもロシアンマフィア相手だった。ちゃんと装備の説明がスタイリッシュにされて以降のシーンでその能力が示されるのがよい。モーフィアスもでる。今回はわんこは無事だが名前はまだない。

耳そぎ饅頭、選択しないという選択、HHhH

空けてしましました。このブログ始めたのは無職のとき、それからいろいろあった。

楽しいこともあったけど、今はだいぶ落ちている。

最近読んだ本、町田康、キャスサンスティーン、ローランビネ。

 

耳そぎ饅頭は2000年前後の作品。エッセイ集。エッセイは初めて読んだかも。正直まだ極まってる感は薄い。町田康の文体の軽薄さは極めて好きだが、その一方ギャップを狙ってかの大仰な表現はあまり乗れないことがある。初めて彼を知ったときは全面的に最高と思っていたが次第にそのあたりは冷静に判断してしまう。もっと軽薄さに徹してくれればなどと思う。こんな感覚は女性が徐々にある男に対する感情が醒めていくのと相似形なのかと思うと少し泣けてしまう。でもやはりおもしろいことには変わらない。わりと話の展開はワンパ。わが朝でこんなもんが流行しているとはけしからん!ぷんぷん→やってみたらよかったわーという。しかし文体が肝心ですからね。

 

耳そぎ饅頭 (講談社文庫)

耳そぎ饅頭 (講談社文庫)

 

 

キャスサンスティー

レッシグ先生からの流れで気になっていた。ので読む。ナッジの話です。自由意志とはなにかという話につながります。サルトルカミュと対談してもらいたい感じ。

一番記憶に残るのは、人は好きなものを選択するが、選択したものを好きになる。という話。そしてその選択はどのようにその環境がデザインされたかに極めて大きく左右される。こういう話を読むと人間は滑稽で哀しいものだと思い、また自分の悩みなどはちっぽけなものであると感じる。

翻訳はあまりこなれていない感じ、追跡としてあるところとかは明らかに追認とすべきだし…

それはともかく選択肢が多いということは必ずしもいいことではない。人生は有限であるし、自分の資源をどこに注ぎ込むか。自分の専門外のところはデフォルトルールに委ねことは経済的である。能動的に選択することで何が得られるのか。能動的選択をすること自体に価値があるのか?結局人間は何のために生きるのか。

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

 

 ローランビネ

結構前に買って、途中まで読んで他の本を読まなければいけなくなり、中断してしまった小説。面白く一気に読んだ。バルガスリョサが激賞するだけはある。ナチの高官ハイドリヒ暗殺についてを書くことを書く小説。僕はそもそもこういった8 1/2的というかメタフィクションものが大好きで大好きで、わたしが今為していることはなにかということに対して少なくとも自覚的であろうという姿勢を極めて尊重する。(だからおれはネット界隈でしばしば見かけるメタいということば遣いに反発する。それはしばしば単に設定や現実の作者の事情に触れる発言に対して発せられるから。それは単に楽屋落ちにすぎないのである。メタフィクションとはそこで触れている題材の問題ではなく態度の問題だろう。まず貴様らは田園に死すを、蒲田行進曲を見よ)

めちゃくちゃ面白いが百年の孤独級ではない。しかしゴングール賞をとったジョナサンリテルをディスりまくるのはおもしろい。逆に読みたくなる。

(既に起こったことを)書くということに対するジレンマが表現されるクライマックス、これはひとつの発明。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)