耳そぎ饅頭、選択しないという選択、HHhH

空けてしましました。このブログ始めたのは無職のとき、それからいろいろあった。

楽しいこともあったけど、今はだいぶ落ちている。

最近読んだ本、町田康、キャスサンスティーン、ローランビネ。

 

耳そぎ饅頭は2000年前後の作品。エッセイ集。エッセイは初めて読んだかも。正直まだ極まってる感は薄い。町田康の文体の軽薄さは極めて好きだが、その一方ギャップを狙ってかの大仰な表現はあまり乗れないことがある。初めて彼を知ったときは全面的に最高と思っていたが次第にそのあたりは冷静に判断してしまう。もっと軽薄さに徹してくれればなどと思う。こんな感覚は女性が徐々にある男に対する感情が醒めていくのと相似形なのかと思うと少し泣けてしまう。でもやはりおもしろいことには変わらない。わりと話の展開はワンパ。わが朝でこんなもんが流行しているとはけしからん!ぷんぷん→やってみたらよかったわーという。しかし文体が肝心ですからね。

 

耳そぎ饅頭 (講談社文庫)

耳そぎ饅頭 (講談社文庫)

 

 

キャスサンスティー

レッシグ先生からの流れで気になっていた。ので読む。ナッジの話です。自由意志とはなにかという話につながります。サルトルカミュと対談してもらいたい感じ。

一番記憶に残るのは、人は好きなものを選択するが、選択したものを好きになる。という話。そしてその選択はどのようにその環境がデザインされたかに極めて大きく左右される。こういう話を読むと人間は滑稽で哀しいものだと思い、また自分の悩みなどはちっぽけなものであると感じる。

翻訳はあまりこなれていない感じ、追跡としてあるところとかは明らかに追認とすべきだし…

それはともかく選択肢が多いということは必ずしもいいことではない。人生は有限であるし、自分の資源をどこに注ぎ込むか。自分の専門外のところはデフォルトルールに委ねことは経済的である。能動的に選択することで何が得られるのか。能動的選択をすること自体に価値があるのか?結局人間は何のために生きるのか。

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

 

 ローランビネ

結構前に買って、途中まで読んで他の本を読まなければいけなくなり、中断してしまった小説。面白く一気に読んだ。バルガスリョサが激賞するだけはある。ナチの高官ハイドリヒ暗殺についてを書くことを書く小説。僕はそもそもこういった8 1/2的というかメタフィクションものが大好きで大好きで、わたしが今為していることはなにかということに対して少なくとも自覚的であろうという姿勢を極めて尊重する。(だからおれはネット界隈でしばしば見かけるメタいということば遣いに反発する。それはしばしば単に設定や現実の作者の事情に触れる発言に対して発せられるから。それは単に楽屋落ちにすぎないのである。メタフィクションとはそこで触れている題材の問題ではなく態度の問題だろう。まず貴様らは田園に死すを、蒲田行進曲を見よ)

めちゃくちゃ面白いが百年の孤独級ではない。しかしゴングール賞をとったジョナサンリテルをディスりまくるのはおもしろい。逆に読みたくなる。

(既に起こったことを)書くということに対するジレンマが表現されるクライマックス、これはひとつの発明。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)