「小説、この無能なものたち」という章で始まるアラブ文学研究者岡真理さんのエッセイ。主にパレスチナの小説を紹介しながら小説に何ができるのかを探る。
サルトルが嘔吐はアフリカの飢えには無力であると言った。あるいはスーザンソンタグを迎えたあるシンポジウムで浅田彰がクリシェ的に「21世紀になって明るい未来が開けると思ったら」と水を向けた際、彼女は果たしてそんなことを思った人はいたでしょうか、とたしなめた(この言葉というより彼の実存が彼女にそのようなリアクションをとらせたのかもしれないけれど)。
これらのことに対し岡真理はあえてナイーブにも小説には何かができるのではないかという姿勢をとる。あまりに厳しい現実の前には「明るい未来」を信じざるを得ず、そうでなければ自爆に至ってしまうと。
p55
世界から忘れ去られ、苦難に喘ぐ人々がもっとも必要としているもの、言い換えるならば、世界に自らの存在を描き込み、苦難から解放されるために致命的に必要とされるもの、それは、「イメージ」である。他者に対する私たちの人間的共感は、他者への想像力によって可能になるが、その私たちの想像力を可能にするのが「イメージ」であるからだ。逆に言えば、「イメージ」が決定的に存在しないということは、想像を働かせるよすがもないということだ。
p225
サバルタンが語ることができない(スピヴァク)のは、サバルタンが語っていないから、ではない。語っているのに聴き取られないからである。あるいは、語っているのに、その言葉が知識人によって横領され、勝手に表象されてしまうからである。だから、サバルタンの声を聴き取ろうと思ったら、知識人は学び知った知識を忘れ去らなければならない。分有している権威を捨て去らなくてはならない。独房の冷たい地べたに座って、女たちの語りに虚心に耳を傾けなくてはいけないのである。
オルタナティブを提示すること、またはイメージを他者と共有することで現実に影響を及ぼすためのある核を提供すること。
ある事象を数値に還元せず、まずは具体的に描く。さらには個別具体的事象から抽象に移ろうさまを捉えたり捉えなかったりする。そうしたことを私は小説に期待している。