P・オースター『幻想の書』感想

妻子を飛行機事故で失った男が、失踪していた無声映画喜劇俳優を追う中で自らの生を再び見出す話

読書体験の寓意

芸術は何かについてのものではあってはならない。芸術は芸術そのものでなくてはならない。主人公は妻子を失い自分の生を見失う。その中でたまたま出会った喜劇俳優ヘクターマン、彼もある事件後名前を変え、己の欲望を抑圧することで自らを罰する。本当の自分の人生を生きるのではなく、その代償行為をもって時を埋める。

しかし逆説的に他人として人生を送るまたは他人の人生を追体験するなかで己の人生を取り戻す。これは読書体験と重なる。

一時自分の人生をやめて(と言って言い過ぎであれば小休止して)己の人生と関係のない話を読む。現実のなかのもう一つの現実なのか、対立するものなのか。染み出しやがて溶け合うものなのか。

生きている人間について書くか、死んでいる人間について書くか

ヘクターマンについて書き上げて忘れたころにそのことについて手紙が来る。

シャトーブリアンに移ろうとしていた時だ。

シャトーブリアンは死んだ人間、ヘクターマンは死んでおりかつ生きている人間

ある時点においては主人公はまだ(辛うじて)生きているほうを選んだ。

シュレディンガーの猫

もし映画を作っても、かりに誰も見ないとしたら、その映画は存在するか、しないか? …カフカは原稿を燃やせとマックス・ブロートに指示したわけだけど…ブローとはそれを実行できなかった。でもフリーダは実行するわ。かならず。ヘクターが死んだらその翌日に、何もかも菜園に持っていって燃やすことになっているの。 pp270-271

 

あれから十一年経って、あそこ玄関に着く前に私が立ちどまって、空の残り半分を見て、大きな丸い月が私たちに光を降らしているのが見えたとしたら? その夜、空に月は出ていなかった、という言葉はやはり真実だろうか? だが私はふり返って後ろを見はしなかった。だから、イエス、その限りにおいては真実なのだ。私が月を見なかったのなら、月はそこになかったのだ。p290

 

豊かな青、Fの瞳の青。よく見ようとかがみ込んだら、石だった。何かの宝石か、月長石か、サファイア、それともただのカットグラスのかけらか。…拾い上げようとしたら、指が石に触ったとたんばらばらに崩れ、濡れたぬるぬると化した。石田と思ったのは、人間の痰だった。…光がそれを貫き、反射がそれを光沢ある青色に変えたせいでしっかり固体に見えたのだ。p379(ヘクターマンの日記)

本作では、ヘクターマンやシャトーブリアンの回想録や映画といった作中作において同じテーマが変奏されながら繰り返し描かれ、互いに響きあう。そしてそれは主人公でヴィッドジンマーにも波及し、ひいてはオースターあるいは我々読者にも及ぶ。われわれが虚構と向き合うとき何が起きているのか。虚構とは現実の似姿なのか。

われわれは現実という幻想を生きている。小説は現実より現実的である。現実は幻想であるということに気づかされるのは現実を離脱したときである。

顔にあざのある女、二重性

いよいよ主人公をヘクターマンに導く女性、アルマがやってくる。彼女は顔にあざがある。バルガスリョサの小説に出てきたマスカリータを思い出した。

本作中ではホーソーンの『あざ』に言及する。アルマはこれに感動し、己とあざは不可分であるということを受け入れるようになる。

俳優、記憶の上書き、再生

結局主人公はシャトーブリアンに戻る。ヘクターマンの映画が示す”リアリティ”とは?

映画は燃やされ、アルマは死ぬ。しかしわずかな希望は残る。小説は読まれるために書かれ、読者を得るごとによみがえる。