平田オリザ『演劇入門』(第三章)を読む

第三章 対話を生むために―登場人物・プロット・エピソード・台詞

1 登場人物を考える

外部の人間を適切に量・質ともに設定すること。

これにより情報格差を内外の登場人物間に生じさせ、説明的台詞を回避することができる。(オリザ氏は内部:中間:外部=7:4:4が多い)また良い戯曲の書き方は教えられないので、悪い戯曲を回避する方法こととなる。

2 プロットを考える

人物の出入りと提示される情報を書き出し、図表化する。その際、舞台の物理的制約もできるだけ考慮すること。

3 エピソードを考える

作者の意図と非意図との距離感のバランス

でき上がったプロットと照らし合わせながら、モチーフから遠い順番にエピソードを並べていく。モチーフから遠いと言っても、まったくモチーフから離れてしまっていてはいけない。遠いイメージから近いイメージへと、あるイメージが別のイメージを喚起するような形で会話をつなげていくことができれば、その戯曲は成功する。

テレビドラマや映画のシナリオが、事件の連鎖によって創られるものだとすれば、演劇の戯曲は、このようなイメージの連鎖によって創られると言えるのではないだろうか。p.104

とはいえ映画でもイメージドリブンなやつはある気がする。

それはさておき、同時に資料収集、取材は必要である。しかしネタ探しになってはいけない。ネタの落とし込みに囚われてしまうからだ。何を書くかではなくいかに書くかが重要。

著者は一本の戯曲に対して30から50冊ほど本を読み、その他関連資料に当たり、場合によっては取材に行く。

4 台詞を書く

このフェーズに入るにあたっては何を書きたいのかまた伝えたいのかを改めて整理するとよい(テーマの明確化)とはいえ

私たちは、テーマがあって書き始めるわけではない。むしろ、テーマを見つけるために書き始めるのだ。それは、私たちの人生が、あらかじめ定められたテーマ、目標があって生きているわけではないのと似ているだろう。私たちは、生きる目的をどうにかしてつかもうとして、この茫洋としてつかみどころのない人生のときを、少しずつでも前に進めていくのではないだろうか。私たちは、生きるテーマを見つけるために生き、そして書くのだ。 p.108 

 会話(convesation)と対話(dialogue)の使い分け。後者は他者性があり、戯曲を駆動させる力をもつ。しかし冗長率はふつう対話の方が大きい。

夏目漱石は対話を描くことのできた作家といえるが、これは(島国、ハイコンテキスト社会である)日本においては稀なことである。本来戯曲が対話劇の成立に貢献すべきであったが、ファシズムの嵐もあり左右両派とも「演説」か「独り言」の演劇に堕してしまった。他者性の低い日本人/語では対話ベースの近代演劇は成立しえないのだろうか。またそれに従い近代演劇を超克すべき現代演劇も当然成立しえないのだろうか。

しかしそのような条件であっても逆に戯曲から社会へ働きかけることができるのではないかと著者は考えている。他国のものと話す際狂言のことばを用いた江戸後期の承認の例から

戯曲が話し言葉を記述する唯一の表現である以上、書かれた戯曲の言葉が、逆に社会の話し言葉の規範となるのは当然のことだっただろう。流動性の低い社会だからこそ、演劇のことばの果たす役割は大きく、 細分化された社会をつなぐ、一つの架け橋の役割を果たしてきたのだ。

現代の日本においても、それが不可能なはずがない。戯曲を書くという行為は日本人の対話の形を探ると同時に、未来に向けて日本語の対話の形を模索する行為でもあるのだ。  p.142