J・M・クッツェー『敵あるいはフォー』(感想)

ヒリス・ミラーの「文学の読み方」に言及されていて面白そうだから読んだ、面白かった。なんだこの頭悪い文章オホホ

これは前の記事にも少し書いたが、ロビンソン・クルーソーのパロディであり、物語ることについて言及するメタフィクショナルな小説です。作者のクッツェーは『マイケルK』が特に有名でしょうか、私もこれだけ読んだことがあります。本作はその三年後1986年に発表されています。

本作は四章もしくは三章+エピローグからなります。

Ⅰ.漂流譚 p.3-

Ⅱ.イギリスでの放浪 p.55-

Ⅲ.フォーの部屋にて p.141-

Ⅳ.エピローグ(外部世界の提示)p.193-199

主人公スーザン・バートンは漂着した島でロビンソン・クルーソーと元奴隷のフライデイと会い、生活を共にする。その後救出されイギリスに帰国するが、その途上クルーソーは死ぬ。帰国後この漂流譚をまとめるため作家であるフォーにこの仕事を依頼するが連絡が途絶する…といったところが簡単なあらすじである。

以下ネタバレございます。もっともネタバレどうこう言うタイプの小説ではないですが。

語ることと音楽、或いはキスすること

語ることは騙ることである。それでは肉体的接触は何かを保証することになるのか?

永遠に同じ動作をしてそれを愛の行為と呼ぶこともできない。音楽だって同じことです。永遠に同じ調べを奏でて満足に浸ることなんて私たちはできないのです。まあ少なくとも文明人ならそのはずです。というわけで私は調べを変更しないではいられませんでした。まずは一つの音を二つの半音に分け、それから二つは調べを変更しないではいられませんでした。まず一つの音を半音にわけ…フライデイもついてくると思いました。けれど、駄目でした。フライデイは前の調べに固執し、二つの調べが同時に演奏されると。それはもう心地よい対位法なんていうものではなく、反対にジャンジャンギシギシと神経をいらだたせ、不快感を与えるのです。フライデイは本当に私の音など聞いているのだろうか。私は疑問を抱き始めました。pp.121-122

音楽でコミュニケ―ションを取れるのか。ひとりが発したフレーズを相手方がリフレインすること。音楽、会話、愛がこのような形態をとるのではないかとスーザンは考える(と書かれる)。しかしながら永遠に変化のない挨拶のようなやり取りはこれには該当しない。差異と反復が求められる。島においてもフライデイは同じ音色を執拗に繰り返すことが示されていた。イギリスに渡ってからもやはり彼とはコミュニケーションは取れない。失われた舌はコミュニケーション不能性を象徴しており、いかなる方法においても代替できないように思われる。

「というわけで全部で五部ある。娘の失踪、ブラジルでの捜索、捜索を打ち切った後の島の冒険、仮設ではあるが、娘による創作、そして娘は母親と巡り合う。こうして本を作り上げる。失踪、次いで捜索、そして再会。序盤、次いで中盤、そして終盤だ。目新しさに関しては、これは島のエピソードを盛り込めばいいし――正確には中盤の二番目の部分――、そして母親が打ち切った捜索を娘が開始するという反転」…

「島は、それだけでは物語にはならないんだよ」フォーは手を私の膝に当てて穏やかに言った。

「物語は、より大きな設定の中においてやることによってのみ、生命を吹き込むことができるんだよ。…島は光と影に欠けている。のべつ同じことばかり。パンの塊みたいだよ。もし人が読むことに飢えていたら、おそらくそれで生きながらえもするだおう。しかしそこに甘い菓子やペストリーがある時に誰がそんなものを取るかな」p.146 

物語には(起承転結、序破急、緩急といった)展開が必要であるということが示される。その後にスーザンがフライデイの舌の話ができないことについて語る。「本当の話というのは、フライデイに人為的に声を与える手だてが見つからない限り聞くことはできないんです。」このあたりはヒリス・ミラーの本に書かれていて物語の中心には近づくことができない沈黙があるという話である。ブランショのいうセイレーンの沈黙である。 映画で言えば若干ずれるが、マクガフィン的なもの。

「私の沈黙と、フライデイがそうであるような類の沈黙とを区別しそこなっているという点で、あなたは著しい誤りを犯しているのです。フライデイは言葉が何もできませんし、他人の欲望に従ってだんだん違う形に造り変えられていくのを防ぐ手だては何もないのです。私が彼は人食い人であると言えば、彼は人食い人になるのです。選択夫だと言えば、選択夫になる。フライデイの正体は何でしょう?あなたはこう答えるでしょう。彼は人食い人でもないし選択夫でもない、それらは単なる名前だ、彼の本質に迫るものではない、彼は現実の肉体であり、彼は彼自身で、フライデイはフライデイなのだ、と。でもそうじゃありません。彼が彼自身にとって何であろうと(彼は彼自身にとって何かなのですか?――どうやって彼はそれを告げることができるのですか?)、私が彼について考えるものが世界にとっての彼になるのです。ですから、フライデイの沈黙はどうしようもない沈黙なのです。彼は沈黙の子なんです。生まれない子供なんです。生まれようがないのに生まれるのを待つ子なんです。ところが私がバイアのことや何かで守っている沈黙というのは、目的があってそうしているのです。自発的な沈黙何です。バイアはもう、一つ世界です。…島の領域に閉じ込めることはできないのです。例えばバイアの通りにはお菓子を盆に乗せて売り歩いている女がいます。そのお菓子の名前を幾つか言ってみましょうか。パナモス、これはインディオの…太った商人が奴隷に担がせた籠に乗って進んでいきます。バイアのことを一冊の本のカバーの間に詰め込むことなんてこと、どうすればできるというのでしょう?言葉というものにおとなしく抑えられてくれるのは、小さくて人のまばらなところだけです。無人島や空き家のようなね。 pp.151-153 

語るべき舌を持たぬフライデイについては真に語ることができない、もしくは騙ることはできる。といえるかもしれない。

ではフォーによって書かれたであろうスーザン・バートンとは何者であろうか?

「こうして遂にあなたと同じ部屋にいて、私のあらゆる行動をあなたに話す必要などない――私をその目に捕らえているんです、あなたは盲目じゃないんですから――なのに相変わらず私は描写し表現している。聞いてください!描写している。暗い階段、がらんとした部屋、カーテンで仕切られた小部屋、あなたのほうが千倍もよく知っているような細かな事柄までも。あなたの様子を話し、私の様子を話し、あなたの言葉を述べ、私の言葉を述べて。なぜ私はしゃべるのでしょうか?誰に向かってしゃべっているのでしょうか?いつになったらしゃべらずにすむようになるのでしょうか?

初めは、あなたに島の物語をして、それがすんだら元の生活に戻るものと思っていました。でも今、私の全生活が物語になってしまって、私の手元には何もなくなってしまいました。私は私自身で、この子は別の世からやってきてあなたが作り上げた言葉を話す生き物なのだと思っていました。でも今は疑問でいっぱいです。私には疑問以外、何も残っていないのです。私が疑問そのものなのです。しゃべっている私は誰なんでしょうか?私もまた亡霊なんでしょうか?どういう世界に属しているのでしょう?そしてあなたは。あなたは誰なんですか?」pp.166-167

この質問に対してフォーはキスをする。このキスに答えるもスーザンはこれは答えではなくはぐらかしと捉える。そして幽霊ともキスし得るという。フィクションではあらゆることが起こりうる。

またどうして現実も創造主によって書かれたフィクションであると言えないだろうか。

キス―たとえ、それが舌を絡ませるものであったとしても―は対象の実在を保証することにはなりえない。なぜならばさらなるアウターワールドが存在しているのかもしれないから。キスによって実在を確かめることができるのはあくまで同じ世界内存在であるということのみ。それ以上でもそれ以下でもない。これはセックスも同様。或いは暴力。

語ること/見ること

「物語の核心、と私はいった」フォーは繰り返した「だが、目とでも言うべきだったな。物語の目だ。フライデイは丸太に乗って、海の底から彼を見つめている目の中の暗い瞳孔――あるいは死んだ眼窩――を横切り、漕いで行く。横切って漕いで、なおかつ無事でいる。その目の中へと降りて行く仕事を、彼は我々に任せているんだ。そうでなければ、彼のように、我々は表層を撫でるように航海して上陸するだけ、相も変わらず同じ生活を繰り返し、赤ん坊のように夢も見ずに眠るだけだ」p.177

これを受けてあるいは比喩的に口のようなものとスーザンは返す。

また別のところで真実を語るためには静寂と快適な椅子、じっと見通すための椅子が必要という。これはクルーソーが島で持っていた唯一の家具がベッドであったことに呼応する。文机や筆記具を作ればよかったのにと彼女は言及していた。さらに彼女が漂流譚をまとめていた部屋には窓がなかった。

自由の意味なんて我々は知る必要などないんだよ、スーザン。自由というのはただの言葉なのさ、その辺の言葉と同じだよ。口に出せばほんの一息、石盤に書けば七つの文字さ。それは君が話している願望、解放されたいという願望につけた名前に過ぎないんだよ。我々に関わってくるのはその願望なんだ。名前ではない。林檎とは何なのか、言葉では言えないからこそ、林檎を食べることが許されるんだよ。我々は必要とするものの名前を知り、そしてその必要を満たすためにその名前を使うことができればそれでいいんだ。腹が減った時に小銭を使って食べ物を買うのと同じだよ。フライデイに彼の必要に応じた言葉を教えるのは大した仕事ではないよ。p.187 

そしてフライデイに書くことで言葉を教えることになる。ほかの部分と同様に比較的あっさりと描写されるが感動的といえる。これは彼が物語る術を得たといえるのだろうか。尤もoの文字を繰り返し書き込んでいるということであるからこれは楽観視できない。oという円環を繰り返し続けるということかもしれない。もちろんスーザンらの助力によってaも書けるようになるかもしれないが。

書くことは話すことの影として運命づけられているわけではないとフォーは言う。これはフライデイがスーザンの影のようと言っていたことに対応する。もはやフライデイは自立可能である。

いずれにせよエピローグ部分で外部が示されることで、フライデイが発信能力を得たというその感動は意図的に弱められる。そして我々がこの物語を読んでいる現実世界も、当の物語世界から一階層上のレイヤーに位置するに過ぎず、本質的な差異はないことが示される。

メタファー

「安心なさい、フライデイ。こうしてあなたのベッド脇に座って欲望だのキスだのの話をしているけれど、誘っているわけじゃないのよ。『彫像は冷たいと言うのは『肉体は暖かい』という意味だとか、『答えが欲しい』と言うのは『抱いて欲しい』という意味なのだとか、そんなふうに言葉ががいちいち別の意味を持つような、これはそんなお遊びじゃないの。そして私の今している否定も、よくあるような——少なくとも英国ではね(あなたの国ではどういう習慣か知らないけど)——優しく要求されたときに謙虚を装ってする偽りの拒否ではないのよ。誘いたかったら私は率直に誘う、それは信じていいわ。でも今は誘っているんじゃないの。あなたに心底わかってもらおうとしているだけなの。私の知る限り、今まで一言もしゃべったことのない、そしてこれからも間違いなくしゃべることはないあなたに、来る日も来る日も、答えも得られずに話しかけることがどんなことなのか。それでこんなたとえを使っているのよ。返答を願うのは、だれかを抱きたい、あるいは抱き締めてもらいたいと願うのに似ている、とね。」p.96

この「フォー」という小説はスーザンの真実の物語をフォーがまとめたものとしてクッツェーが著したものである。スーザンの言う通り神が書いたものの一部である我々には神の文字を読むことはできない。

メタファーとは何かを参照して理解することである。パロディーも同様である。

 「奴隷商人たちは捕らえた奴隷をより御し易くするために、その舌を切るのを習慣にしているのだとクルーソーが言った時、正直に言いますけど私、直接言うのがはばかられるので彼は比喩を用いているんじゃないかしらとも思いました。なくした舌はただ舌だけじゃなくて、もっと残虐な切除を意味するのではないかと。唖の奴隷というのは去勢された奴隷ということではないかしらと思ったのです。p.148

 スーザンは島でフライデイの切除された舌のある口から目を背けた。またこの後に「私は見たし、見たものを信じました。トマスは、見てもその手を傷に当てるまでは信じなかったという話、後で思いだしましたけれど」とあるように去勢がされたかどうかという点に関しても直接言及しない。これは先にも書いた通りフライデイという存在が触れえぬ物語の中心に位置する沈黙(最後には解消されるが)であることを示している。

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長々と書いてしまった。メタフィクションがぼくは大好きなのでとても楽しめた。かなり誠実に小説というものに向き合っていることがわかる。現代において無邪気に小説を書くということはあまりに暢気すぎる。そんなことはもはや許されない。小説は死にゆくものであることを認識し、にも拘わらずなぜなおも小説はサバイブできるのかということに対して自覚的でなければならない。それ故現代小説は何某かのメタフィクション性を持たざるを得ない。

バードマンとかまどまぎ好きな人には大変ヒットする作品だと思います。おすすめです。