第一章は文学の死とか成立条件(国民国家や国語など)、メディアの発展とかシニフィエなきシニフィアンなどそんな感じ
第二章 バーチャル・リアリティとしての文学
取り上げず見出しを書きだすと
- 「開けゴマ」
- なぜ文学は暴力的なのか
- 亡霊の呼び出しとしての冒頭部
- 文学の不可思議
- 文学とは行為遂行的発話である
- 文学は秘密を守る
- 文学は比喩言語を使用する
- 文学は発明するのか、それとも発見するのか。
文学の不可思議を強調することは重要である。なぜなら、多くの文学研究(多くの新聞雑誌に掲載される批評は言うまでもない)は、その主な役割の一つとして、スイスのロビンソン一家が島の動物や鳥や魚を殺したり飼いならしたりしたように、常にその不可思議を覆い隠してきたからである。文学研究は文学言語の特異性を説明し、自然なものにし、中和し、親しみのあるものへと変えることによって、その特異性を覆い隠す。これは普通、文学言語のなかに、何らかの形で現実世界の表象を見ることを意味している。この説明の仕方が作品と作者を結びつける形を取ろうと、作品はその作品の歴史上の時間と場所を典型的に表すとか、作者の階級、ジェンダー。人種に特有なものであるということを論証する形を取ろうと、作品を物質的あるいは社会的現実世界を反映したものと見る形を取ろうと、また文学言語の機能に関する一般概念へ作品を結びつける形を取ろうと、その暗黙の目標は、文学の真の不可思議に対して人間が抱く意識的ないし無意識的恐怖を和らげることなのである。私たちは個々の作品が類まれなるものであることに恐れを感じているのだ。
個々の作品には
それ自体の心理、すなわちほかのどの作品の心理とも異なる真理があると断言すれば、私が今言っていることは、文学の模倣性や参照性の定義に反することだけでなく、ハイデガー的な文学概念、つまり彼が「作品のなかに心理を示すこと」と呼ぶ詩の概念にも反することになる。p.39
ウサギとハリネズミ グリム童話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>
をデリダが再引用し、詩とはボールのようにまるまったハリネズミという。「常に既にそこに在るもの」の一例とのこと
ここで抽象的な分析を行うことによって、明らかに私は自ら警告を発しているにもかかわらず、あの過ちを再び犯そうとしている。文学理論が本書の最初の文章が言明しているあの文学の死の一因になっていることは否定できない。文学理論は文学の社会的役割が弱まっていたまさにその時期に、その現代的な形を取って台頭した。p.42
ここでギリシア悲劇の衰退期に現れたアリストテレスからサルトル、ベンヤミン、ルカーチ、ブランショ、ド・マン、デリダ、ジェイムソン、バトラーの名を挙げる。
行為遂行行為的発話云々がこの後も重要になりそうな様子。