『パターソン』感想

予定は夜に飲み会だけ。かなり早めに家を出て、街を徘徊し映画など見て待ち合わせ場所に向かうときの優越感。無職の特権です。アーハー

そんなわけでジム・ジャームッシュの新作見てきました。そういえばパリステキサス好きだったなーと思って今ジャームッシュのフィルモグラフィ見てたら、そこに名前がなくてあれっとなってそれヴィム・ヴェンダースやんと気づいた男の感想です。

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無職一時引退

こんばんみ。

私、RSK2は不本意ながらこの度無職を引退することとなりましたのでここにご報告申し上げます。

このブログを開設するまでに既に無職ってたので、まあ結構エンジョイできました。今度のお仕事は事務系というか制作系というかそんな感じのやつでわりかし自分のやりたい方面軍でござったのでせいぜい死なない程度に頑張ろうかと思っております。

こういった方向付けができたのはこないだエモキモイ記事(回顧録、911に際して - 人生をガチれ)を書いてしまったあの子に刺激を受けた部分が多分にあった。あの近傍で結構心の深くに刺さる事象があり、それを今後の燃料にしていけるような気がしている。

新卒時既に道を外れていた私は下手に回りにキャッチアップしようとしてもそれは下策とは思っていた。思ってはいたのだが、なかなか自分の気持ちに正直になれなかった。偽りのニヒリズムというか、人生辛抱も必要でしょというか、こんなもんでしょというか。しかし僕は真のニヒリズムに到達しないといけないと深く認識しましたよ。ニーチェ先生。おれはもう既に一度死んだ人間だ。ここからはボーナスステージだ。

敢えてここにこれを記載することでこの気持ちを死守していきたい。

仕事が始まったらブログの更新頻度は減るとは思うが、自分への戒めのためにも継続はしていきます。ほんとはDTMももっとしていきたいんだけどこちらはしばし休息かもしれぬ。

そういえばビビる大木って最近出てる?

どうでもいいですね。

まだまだこれからも人生ガチり続けていきます。

GTAと龍が如く

今日はユールの導入していた概念をもとにちょっとGTA龍が如くについて(基本的に5と極)早口気味で語ってみようと思う。

基本性質としてGTA創発型ベース、龍が如くは進行型ベースといっていいだろう。これは世界の実装方法としても現れており、前者は完全にオープンワールド、後者はオープンワールド風(見えない壁有)である。(雑だが今日のところは許してつかあさい)またマップのリアルワールドシミュレーション度は龍が如くの方が高い。マップ規模的に当然ではあるがサンアンドレアスやリバティシティはかなり省略や再構成がされている。かつ様々な実在の小道具、店舗が龍がでは登場する。ルールとフィクションの一致度に関してはGTAが圧倒的に高い。これゆえ創発型ベースと感じるのであろうが、まさにそこに在る世界を経験するというためにはルールとフィクションのシンクロ率を高める必要があり、おそらくロックスターはこの点について最もリソースを割いているであろう。ぼくが龍が如くをプレイして感じる最大の不満はこの点である。なぜ商店街の先の見えている箇所に行けないのだ。神室町が実在感を持って立ち現れるほどに不満が高まる。ムービーの銃は危険問題とともに神室町の見えない壁は私にとっての重大議題である。もっとも「慣れた」プレイヤーにとってはお約束と感じられ、慈しむべき笑窪なのであろう。

しかし所謂洋ゲーマーにはこの点はしばしば揶揄される。更に論難される点としてはムービー過多、回想過多という点がある。特に序盤そこまでキャラに思い入れがない場合はかなりテンポが悪く感じられる。正直この点に関してはプレイするまでかなりおれもばかにしていた(ぼくはゼロと極しかプレイしたことのないにわか如カーです。ほかのシリーズは過去の同居人がプレイしてるのを見たり少し触った程度)。これだからジャパニーズゲームは┐(´д`)┌ヤレヤレみたいな。ただこれはシリーズをやっていると桐生ちゃんや真嶋の兄さんが愛おしくなり、またはじまったよもおばかだなあヽ(`Д´)ノプンプンみたいに許せるようになってしまう。日本社会を象徴するようなハイコンテキストゲーともいえるのかもしれない。とはいえ一方GTA5もキャラ萌え要素はかなり強化はされており、多くのトレバー信者を生み出しただろう。

結局のところ、龍が如くはストーリードリブンの進行型ゲームでゲームとしての豊饒さはゲーム内ゲームの量に依存している傾向が強い。また神室町はリアルのシミュレーションの忠実度が高いにも関わらず非整合な点が多い歪な作品である。しかしながらこのような歪さは桐生一馬と愉快な仲間たちの胆力のお陰で魅力へと転化しているのである。彼我の物量差を考えるとベターな選択であるとはいえるのであろう。

この短いブログの歴史の中でしつこく挙げるが、この点Hotline Miamiはルールとフィクションのハーモニーが極上なのである。素早く積み重なるロシアンマフィアとバイカーの死があの素晴らしい音楽とともに齎すトリップ感。暴力に快感を感じるようになったころ、我々はその暴力性に疑問符を突き付けられる。画面から送られる視線ということではもちろん映画などでも可能な手法であるが、これほどクリティカルにこちら側へ浸食してくることができるのは自ら手を動かすゲーム特有の経験である。もはやプレイヤーを安全圏に安住させないということこそが僕がゲームにもっとも求めていることだ。冷たいナイフの刃をこちらへ突き立ててくれ!

イェスパー・ユール『ハーフリアル』を読む(Chap.5)

Chapter5 ルールとフィクション

本章ではゲームのルール的側面とフィクション的側面がいかにあり、また機能するかについて考察している。

カイヨワのことばを引くと両側面とも現実世界から当該ゲームの空間を分離させるという機能面で(手法は異なれど)等しい効果がある。

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イェスパー・ユール『ハーフリアル』を読む(Chap.4)

Chapter4 フィクション

ゲームのフィクションはルールに依存する

虚構世界

あらゆる虚構世界は不完全である。なぜならすべてを描写することはできないから。ゆえに欠落部分は受け手によって補充される。この補充は現実世界や当該ジャンルの知識によって行われる。

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