J・ヒリス・ミラー『文学の読み方』を読む(第五章)

第五章 文学の読み方

  • 読み方を教えるのは骨折り損

二つの矛盾した簡単には両立できない読み、これを読みのアポリアと呼ぶ。

  • 熱狂としての読書

一つ目がアレグロの読み、素朴読み、子供のような読みである。

もしあなたの全ての関心が、音符の詳細な技巧を調べることや、既存の音楽の影響について考えることに向かってしまうのなら、あなたには音楽を音楽として聴くことはほとんどできなくなるだろう。文学を正しく読もうとすれば、幼い子供のようにならねばならない。

これを実現するためには、音楽の場合と全く同様に、読書にもある一定のスピードが必要である。あまりにも長い間ぐずぐずしながら言葉を読めば、言葉は未知の世界の窓としての力を失ってしまう。…ページ上で目を踊らせながら素早く、アレグロで読まねばならない。 pp.147-148

もう一つがニーチェの言ったレントで読むことである。幻影を作り出す興行師の姿を観察すること。このレント読み(批評的読解)には伝統的に二つの系統がある①修辞的読解②カルチュラル・スタディーズ的読み(作品、作家のバッググラウンドの読込)

この読み方は作品を脱神秘化する。

上記のアレグロ読み、レント読みは相互対立する。

また作品を脱神秘化という無粋なことをしてしまうのは大きく二つの欲望によるだろう

一つに(疑似科学的な)知的好奇心の追求 ちなみに著者は物理学からの転向組らしい。もう一つは文学の魔力に対する防衛本能。脱神秘化勢力はデリダ脱構築主義者はもちろんだが、やはり文献学者たるニーチェがその大家といえる。脱神秘化する読みによって文学は死に至る。

  • 『スイスのロビンソン』を私が愛読した理由

アレグロ読みの例、アレグロ読みは甘美である。

  • 『スイスのロビンソン』をレントで読む

同じくレント読みの例、同作は一人の作者によって構築されたものではなく、多数の人間によって増殖・増幅させられたものであった。