ドリヤス工場『オモテナシ生徒会』感想

女子校の生徒会でカードゲームバトル

水木絵でさまざまなギャンブル漫画+αのパロディ盛々

絵柄の時点でオリジナリティを捨てているのだが、本作品ではそれに加えて各種各様の他作品のネタが盛り込まれている。こういう人間は強いだろう。彼は他者の剽窃をよしとする傲慢なやつなのか。決してそうではなく、軽薄ながらも謙虚に技術を磨いている。そんな印象。織田作之助ブコウスキー町田康と近しい創作へのアティチュードを感じるようないないような。

ギャンブル描写としては簡略化されており、やや食い足りない面もあるが、強敵(とも)との絆描写など正しく少年漫画をしており小学生から大人まで幅広くお楽しみいただける作品です。

マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アート(〜6.8 sun.)

仕事帰りに寄ってみた。フライデイナイト空いていた。ゴジラは賑わってた。

 

汎用ゲームエンジンとアセットで構成されたグリッチ的表現によって人間社会の不条理を逆照射するみたいなものとか美しいランドスケープにデジタル的表現を上書きして的なやつがだいたいだったかな。

なんか雑なまとめ方をしてしまうが、正直あまり足を止めさせる感じはなかった。

じっくり見てたら何かあったかもしれないが、空腹スリップダメージもあってわりとそそくさと。そのなかでは、アニカ・イの放散虫のオブジェとか最後にあったケイト・クロフォードの帝国の計算は見た目もカッコよかったし、しばらく眺めてた。

デジタルアート系はそれを主要なコンテンツとして見る場合、相当な強度がないともはや目に留まらない。我々はもはや機関車が入線する映像をみて腰を抜かしはしないし、一方で大資本が時間と人と金を潤沢に投入する作品がある。だったらインディーズ含めゲームでいいよねという。

インスタレーション作品は割と視線が散逸しがちだし、大抵部屋は明るい。映画型の暗がりにスクリーン型は視線は一方向に定まり、観客は他者の視線から隠れることができる。映画フォーマットにならされ過ぎているのかもしれないが、私も含め暗がりで視線を一方向に注ぐ方が落ち着くようだ。インスタレーションはその場に足を止めて見ている観客も作品に取り込まれて、共犯者にされる。それゆえ見る人は安全地帯から眺める観客から参加者となり、そこに意義があるのだという主張は成立するだろうがあまり人気がない気がする。

ほとんど一体化して展示されているカブリエル・アブランテスはわかりやすいし(4本目はちょっと難しい? アリスとファネス×ゴドーみたいなこと?)、写真は春木麻衣子作品が好きだった。

あと60年代アングラの雑誌ポスター類の展示もあるので良いですよ。

松永K三蔵『バリ山行』感想

バリ山行ってなんすかと、名前がずっと気になってた。ようやく読んだ文藝春秋

とてもよかった。

凡庸な妻子持ち内装業サラリーマンが、独身40男・妻鹿(めが)とのバリ山行を経て心の平穏を得たかもしれないという話。文体はわりとフラット、平易な感じでもたまに眦とか使うことがある。

日常、妻鹿という非日常

転職したての主人公は営業だし前職の反省も踏まえて、会社で誘われた山登りに参加するようになる。まあまあいい感じで会社に馴染めそうだ。こうした活動も半分は仕事、だから子供がまだ小さいのに土日に家を空けても妻は許容してくれそうだ。ある時、珍しく次の山で、妻鹿が参加するという。妻鹿という男は縄文系の低身長、独身男である。防水については非常に詳しく、客対応はともかく仕事はできるっぽいが、たまに現場仕事でたまにブちぎれるやつだ。

妻鹿、会社に異変が起きそうでも変わらず淡々と仕事をしている。主人公が仕事でピンチの際に防水の知識を発揮して助けてくれる。そこで若干仲良くなって、妻鹿がやってるバリ山行ついていってみようかな。

なんのための登山ウェア?

これは誰もが気づくであろう話。冒頭でも社内のみんなの登山ルックに言及され、主人公もなんか良さげな登山ウェアを購入していく旨が示される。一方妻鹿はホムセンで安い実用的なものを使っている。彼こそ既存の価値感に対するオルタナティブの提案者、グール―・導師なのである。登山道を行く登山なんて所詮、労働者たちに仮初の慰安を提供する支配者側に都合のよい統治手段の一環なのではないか。貴様らは休日にわずかな気晴らしを得て、体制に対する反感も等閑視し、馴化された家畜にすぎないのではないか。この辺のアンチ物資社会、消費社会的な視点はファイトクラブ的な要素もある。

妻子持ちの常識的な俺が妻鹿というコドオジのことが忘れなくて隙をみてバリ山行しちゃう件について

会社がなんかやばいやばい言いますけどそんなもん大したもんじゃないですよね、ほんとの危険というのはバリでしか味わうことができないんすよと、妻鹿は言う。これは有効な論駁のように思えるが、主人公も再論駁をする。そしてこの再論駁もある程度合理的に思えるはする。

バリ山行で結構な目にあったけど、なんか新しい視点をえられたのかもしれない。でもしばらくするとまあ会社はそのまま続いていくっぽいし…

とは思ったけどなんか影響されてホムセンで登山装備買って着てみて鏡の前にたってみたらそこに妻鹿がいたんだけど、私妻鹿に同一化してるの?!

妻鹿とは妻

妻鹿って珍しい名前だよねってのは本文中でも言及されている。実際にある苗字なのかは調べてないが、まあ雄鹿があるんなら妻鹿もあるんじゃろう。本作において主人公の妻子は後景に退いており、多少文句を言うこともあるが基本的には存在感はない。一方妻鹿はもうほとんど片思いの相手と言っても過言ではないだろう。妻鹿、人付き合いのことはともかく知識はあって仕事はできて、信念もありそうだ。言ってることもちゃんと聞けば間違ってないし、仕事も頼れる、なんならプライベートでも助けられた。でもちょっとむかつくとこもあるんだけど、やっぱり気になる、忘れられない。これは恋ですよね。妻鹿とは恋愛対象、将来の妻候補なのだ。幻影をみるほど恋焦がれるが、その姿は見つからなかった。でもあの青いタータンチェックのマスキングは彼のものだ。

ボーイミーツボーイ

この物語は四十絡みの男がもうちょっと上のさえないおっさんに恋してしまう話なのだ。このおっさん一見するとさえないけど、防水の知識とかすごいし、ちょっとやばそうなとこが垣間見えるときあるんだけど、山では冷静で頼れるんだ。なんか私がちょっと発狂しちゃってもそれを受け止めてくれているのかよくわからないけど少なくともただ黙って聞いてくれる。もうこれ完全にシュキになっちゃってますね。

一方現実の妻はその心配性のおかげか(たたってか)大手保険会社に勤めているという。これもバリでリスクを負いたい妻鹿とは対照的である。社会人、この親としては極めて正しいのだろう。だがそれはありもしない不安を扇情され、己の影におびえる滑稽な資本主義社会に生きるあわれな生物の存在様式にすぎないのではないだろうか。妻鹿のほうが生物として、また逆説的に雄として魅力的なのではないだろうか。

神戸の街の背後に六甲山あり

主人公が山での危険か街での生活か、みたいな論点を妻鹿に対して言う。これは都市で生活しつつ、そこでの生活に疲れたり、飽きたりした人々には一定の説得感をもつだろう。そしてこれを補強するのは神戸という舞台設定だ。著者は大学が関西みたいだから自然なことかもしれないが、神戸という都市で生活すると常に六甲山を意識することになるのではないかと思う。作中では甲子園駅が最寄と明言されているが、六甲山は常に背後に存在し生活と密接している。これまた作中で言われるように山と街は地続きなのだ。こうした地理設定も奏功しているし、サラリーマン生活におけるちょっとした非日常という卑近な題材も極めて広い層にリーチしうる作品だと感じた。

 

ソイ・チェン『トワイライト・ウォリアーズ』感想

川崎、連休夕方の回、5~6割程度の入り

何者でもなかった密航者が九龍城塞での戦いを経て、仲間を得る話。

非常によかった。ネタバレアリアリ。

垂直運動/墜落防止オブジェクト

密航者である陳洛軍は身分証明書を求めファイトクラブで活躍するが黒社会に目をつけられしょぼい偽造品を渡されて、ブちぎれてひと暴れしたら余計に目をつけらちまったので九龍城塞に逃げ込む。そこでのなんやかんやで生じた誤解が発端で、窓から転げ落ちるのだが、城塞の突出していた構造物にひっかかるなどして、完全なる落下は免れ近隣の人々に手を差し伸べられ、寝床を得る。真面目に働いた洛軍は一定の地位を得るが抗争のなかで一度死に城塞から排出される。やがて彼は帰還し、簒奪者を仲間とともに打ち破る。

この作品は非常に垂直方向への運動を意識している。それは九龍城塞(あるいは麻雀牌の積み上げ)が増改築を繰り返していく様でもあり、風に舞う凧であり(さらに上空には飛行機)、抽象的には世代の移行や洛軍の地位の上下運動である。

女性は薬中に突き落とされ、その死体を洛軍は地上に下ろす。洛軍は一度目の死の際、押し車で画面上方から下方へ逃れる。飛行機は画面の下から上へと移動する。飛行機は凧とは異なり燃料があれば自律的に移動することができる。九龍城塞の様々な突起物は

そこにとどまる者の上昇を助け、かつ完全なる墜落を予防してくれるだろう。

九龍城塞の取り壊しと龍捲風の死

そんな共助作用のある九龍城塞だが、周囲からすると悪臭芬々たる存在で再開発は確定事項のように今ではなっていた。陳洛軍を助けてくれたツヨツヨ管理人龍捲風も病に侵されもう長くなさそう。エンタメの鉄則その3くらい、時限要素による緊迫感の発動がなされる。これを書こうと思い、登場人物のなまえを確認したが龍捲風って名前はめちゃくちゃ示唆的だ。この男は風を起こすことができる。風属性のカンフーマスターかっこよすぎ。この風属性の男は城塞の魂である。ゆえに両者の死にゆく運命はパラレルに語られる。

気功とかいうスーパーアーマー

個人情報流出から物語上の一度目の死を経験し、敵味方とも世代は洛軍たち若者に移行した。この2戦目では敵方の銃が解禁される。敵軍大将王九は気功の達人のようで非常にヒャハヒャハしている。ちょっと坂口憲二に似てると思った。気功というのはですね、なんでもできます。ですので基本物理無効かつ炎耐性もあるっぽいです。攻撃力、機動力にも優れているので大変やばいのですが、4人で頑張って紙切れにする、風がふく、そしてヒャハりすぎたやつを内破させ、勝利にいたります。

スパアマ持ち対処法としては王道ですが、この映画、王道をしっかり外さずやってくれるとこが好き。

そしてラストシーン、非常にエモい、イーモウですね。しかしセリフが完全に蛇足。そんなわかりきったことを言葉で説明する必要はない。彼らの表情や仕草、場面をみればわかるのだから。これはイーモウではなくイモです。お芋さん。そして飛行機は上空を通過する。

 

削除シーンがクレジットロールのあとおまけでついていた。これらを削除する判断ができるのは正しい制作者たちだとわかったのはよかったが、初見の者としては今じゃない感が強かった。クレジットロールに組み込むのは後からは難しいだろうがDVD特典とかでよかったんじゃと思う。

洛軍が最初のころきてたジャージは死亡遊戯リスペクト多分ですよね。死亡遊戯も階段を上へのぼっていく話でした。ちょっと最後に文句が出てしまったが、笑窪と思えばかえってチャーミングくらいなもので全体を毀損するわけではない。再見したいです。

義憤

時折衝動にかられる。怒りに身を震わせる。身とはこの場合、主に腹を指す。外界からの刺激が肌から浸透する。臓器のざらついた内壁に乱反射し、拡散する。時をかけ下方に沈殿する。濁った有機物の混合体が時に逆流する。

現在位置OからAへ向かう。点Aは移動したり、実はBであったといったこともある。有効な経路探索ができない。燃料を計画的に調達しなくてはならない。Aまでの距離が不明であるから。炉に火を絶やすな。お前の炎はたやすく冷める。

ようやくAにたどりついて気づく。目的はAに着くことではなかった。その過程で得られた各種経験こそが宝であったのだ。ということに気づく。これはギリシア以来の伝統的物語形式である。月並みな、あまりに平凡なフォーマット。だがそれは万人に通ずるからこそ広汎に流通されるに至ったのではないか。オイディプスは旅によって何を得たのか。旅を通じて己が何者であるかを知る。かつ知らなかったということを知る。知った事実が重要なのでなく、知るという動作こそが尊い

そういうことではないのか。

ぎゃふん。

山中瑶子『ナミビアの砂漠』感想

アマプラにて

非常によかった。

町田(たぶん)を蟹股気味に歩くカナ、喫煙所。これだけでもう素晴らしい。

アス比4:3の脇に記される環境音

最初は何か設定でも触ってしまったかと思ったけどそんなことはなかった。この映画は音、とくに環境音の使い方が特徴的であるのが開始早々にわかる。画角が狭くなったぶん、その帯域には環境音が記録される。社会的な関係を構築するのであれば注視すべきであろう視野が少し狭まって、ざわめきと化する領域が増す。ざわめきが難儀なのは完全なる雑音ではないことで、時に意味が突出してきて耳に刺さることである。ノーパンしゃぶしゃぶ

男は幻想を通じて女を愛する

カナの相手として2人の男が出てくる。一人目は料理をしてくれる部屋のきれいな不動産屋の男。二人目はひとの空腹を軽視する部屋の汚いクリエイター男。お腹は減ってないよって言ってるよ、じゃねーよ。あれはわしも腹立つ。下らねー動画の編集なんかしてるなら飯を食わせろ、メシ。私の記憶が確かなら上司のシミュレーションでマネするのを除き、カナは己の病名の特定を求めるのと一方で二人の名前を呼ばない。彼らは代替可能な存在で、ばかまんこ呼ばわりのキャッチと大同小異である。もっとも風俗行き陳謝ロン毛より堕胎忘れた振りひげのほうが僅かに受忍可能であることには同意。不快だったとか失礼だし。しかしこれらの男が並はずれなくそっぷりを示しているというわけではない。たいていの男は現実はそのまま生きるには苛烈すぎるため、幻想のなかで生きるしかない。わたしもその一人で、こんなふうに見られていただろうなと思うところがあり、心苦しかった。ふわふわしたことしてねえで具体的に人の役にたつことをしろよ、例えば洗濯とか。

逆にカナは極めて現実的で地に足がついている(つきすぎている)。手が出るまではカナは完全に正しいことしか言っていない。があまりに伝わらないため手が出る。はじめのうちは完全なるディスコミュニケーションの末路という感じだが、最後に言葉が通じない者同士のコミュニケーション手段ではないかと思わせるようになる(カナの空腹を男は察知して食事を促す)。この取っ組み合いはセックスの代替表現であることは疑いようがない。暴力については少しディストラクションベイビーズを思わせるところがあった。あちらはもう少しエンタメ的誇張があったし、カナは語ることばを持っているがそれが相手に通じないというところが違うもののコミュニケーションの不可能性という点では合わせてみてもおもしろい。

冷たくなります、冷たくなります、冷たくなります

お仕事場面をしっかり描けている映画は良作の法則。便所がしっかりしているゲームは良作の法則と双璧をなすといっていい。カナはエステ脱毛店の従業員である。従業員としてのカナの無機質な声、白い部屋、サングラス、グルグルモップがけ。ちょうどこれを見る前にブコウスキーの郵便局を読んでいた。あれで言うとトレーに山盛りの郵便物の仕分け作業23分間。いずれもよく労働を描いていた。

カメラ

グルグルしたり(自転およびトンボの目回し方式)、ぬるっとよったり、ワイプだったりいろいろしてる。あとスマホの使い方も効果的でナミビアの砂漠や中国の親戚とのビデオ通話、言葉などないほうがかえっていいのではと思わせる。

美術

服装、部屋などとても良いと思う。非常に実在感がある。汚かった部屋で急に洗濯物がたたまれていたり。カナの白Tにスカート、バケハ、それと対比的な余所行きの服。非常に細やかに作られている。

本作最恐シーン

バーベキューでもう一人のカナに会い、さらに妊娠した友達が合流するところ、顔恐すぎ。このバーベキューのシーンは全体的に不穏な空気でかなりハラハラしながら見た。

こういう表情や動きで人間を描くのが巧みだった。部分は全体を構成するための役割を持つパーツではない。また悪口になってしまうが、「敵」はシーンがどのような意味を持っているかを明確にしてステロタイプな老醜を描くという図式的な映画だったが、本作はあらすじのみに回収されえない豊かな細部にあふれている。同じ2時間ならこうした映画に費やしたい。

キャンプダホイ、キャンプダホイ、キャンプダホイ、ホイ、ホーイ……

長谷川和彦『太陽を盗んだ男』感想

青春の殺人者の数日後に見た。人生ベスト級に良かった。

前作は神話的世界のずらし、今作は神話後の世界

前作・青春の〜はエディプスコンプレックスのずらし、脱臼の物語だった。自らの王国を築くために打倒すべきは父であると思っていたが、実はそうではなかった。雑に言えばそんな話。継父に犯されたけいこは「やられてばかりじゃなかったのよ」と言い、自ら機に乗じて母の地位を簒奪したことを示す。水谷豊=じゅんは打倒すべきは父ではなくけいこの継父であった、と思いきや、それさえも裏切られる。という話だった。それゆえ実の父母を亡きものにしても二人は結ばれず、じゅんは黙って去るのみである。一方で本作はもはや打ち倒すべきであるかと問う以前にもはや父は存在しない。主人公ジュリー=木戸(ころ)まことは平凡な中学の理科教師である。あまりやる気はないが、プルトリウムに取り憑かれるまでは教師としての職責から逸脱しているとまでは言えず、トラビスほど社会性がないわけではない。

神なき=父なき社会で我々はいかに生きるか

親睦旅行の引率をしていた帰り道、バスジャックにあう。犯人は天皇制という家父長制に組み込まれた、組み込まれすぎた老人である。これをきっかけに己の欲望を見出したかに見えたジュリーだが、それは見せかけのものにすぎなかった。

己の欲望とは何か、それは他者の欲望か

原爆があるからなんでもできるが、何がしたいかわからないとジュリーは言う。何となく、見ていたナイター中継を延長しろと言い、ローリングストーンズを呼べと言う。結局何が本当にしたいことなのかわからないと憂鬱に沈む。だがそもそも純粋に内発的な欲望というものは語義矛盾ではないか、真空に己のみが存在して、何を欲望しうるというのだろうか。他者を介在することで初めて欲望が生じる。すなわち己の欲望は?という問いは論証不可能なもので、解なしなのである。

父なき社会で他者を愛す

我々は生殖を契機として他者への愛を覚える(今時分こういうと叩かれる可能性もあるがまずは単純化のためにヘテロセクシャルを念頭におくことを許されたい)。本作は沢田研二池上季実子菅原文太という三名優をえたが、これは池上を巡る三角関係ではない。池上と菅原が沢田を我が物にするため争うのである。だからこそ菅原に対するとき沢田は、女装をし、女声で語りかける。しかしいずれの恋路も成就することはない。菅原は池上を射殺したのち、沢田と心中しようとするが、達せない(ジュリー本作3度目のターザンで逃れる)。こういう見立ては長谷川監督の本領なのだろう。前作では市川悦子の近親相姦を欲望する(かのような)身振りがあり、今作ではホモセクシャルな心中。物語上はそのものズバリではないが、視聴者からはそうとしか見えないという演出。見立てといえば多くの人はタクシードライバーぽさを開始早々に感じるだろう。弟がタクドラの脚本で兄レナード・シュレイダーが本作の脚本とのこと。納得!

お前が一番殺したがっているのはお前自身だと菅原文太=山下満洲男はいう(満洲とは何とも意味深だ)。誠そのとおり、己を放棄することで他者への愛が芽生える。のだろうか。己を貫かなければ他者を愛することもできないのではないか。それは私には今のところわからない。