無職が読む羅生門

中学のときに読んだ羅生門、これって無職向けやんと気付き読み返してみた。一読して思うのはこれ程端正な文章はそう見ないぞということ。芥川の顔のようだ。大学の頃文学をイケメン/ブサメンの対立項で全てぶった斬ろうと試みた記憶。乱暴な話だが、志賀や芥川の文学と武者小路実篤田山花袋の文学では立脚する地盤が違うだろうとは今でも思っている。今だったらこの横軸に加えて、Y軸に陽キャ/陰キャも設定したりするかも。

行方の定まらぬプータローが門に登り、そして迷いを払拭し外界に降りていく。このシンプルな寓話的もしくは神話的構造は的確な描写により力強く立ち現れる。門に入り、出る、それだけ。物語の基本は行って帰る、あるいは日常と非日常の反復とはよく言われるが、これはもう通過するだけ。行きっぱなしである。仮に下人の帰還を想像するとすれば、それはもう死体になって羅生門に放り込まれるぐらいなものしかない。

 

あくまで往復がお話の基本という立場を死守するとすれば、こらは復路が省略され読者に投げられていると捉えることができる。そしてその省略がもたらす不安定感は本作の主題とマッチしている。

 

それではここからはもう少し細部を見ていこう。

作者の介在

まず冒頭部で情景描写があり、羅生門の打ち捨てられた様子や京都の衰退状態などが示される。そして下記の通り作者の存在が明示される。

 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微すいびしていた。

またその直後に

その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。

平安朝といったあとに横文字を使う。これはなんとなくおしゃんてぃーだからやったといえなくもないが、これも当時その場所で使われることがない単語を用いることで作者の存在を示しているともとれる。

そもそも実際に朱雀大路の南端にあるのは羅城門であり、羅生門ではない。ここにも作者の意図の介在が強く感じられる。

面皰

この漢字は羅生門で初めてしったなあたぶん。このあからさまに象徴的なアイテムが作品の構成原理を明確に示している。この作品は象徴主義的コードにより書かれている。

下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺のあおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰にきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。

 

羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子ようすを窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤くうみを持った面皰にきびのある頬である

 

下人は、太刀をさやにおさめて、その太刀のつかを左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰にきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

 

 老婆の話がおわると、下人はあざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰にきびから離して、老婆の襟上えりがみをつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、おれ引剥ひはぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

面皰は第二次性徴期を象徴するものであろう。大人と子供の間。不安定な時期。下人の正確な年齢は不明であるが、まだ年若いことは想像できる。かつ失業中という身分(ここで言う暇を出すは休暇を与えられた方ではないだろう)、そしてこの作品における羅生門という人生の分岐点という狭間性と呼応する。

もう一点この面皰は赤い。炎症を起こしていることを示している。彼の内心は紛糾状態にある。ついには面皰から手を放し門を下り、下人は闇に消える。

羅生門、面皰の他の象徴的アイテムには蟋蟀、鴉がある。

メタファー

言ってしまえばこの作品のすべてはメタファーである。

ここでは直喩simileを抜き出す。

羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子ようすを窺っていた

下人は、守宮やもりのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。

そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土をねて造った人形のように、口をいたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。

しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久におしの如く黙っていた。

旧記の記者の語を借りれば、「頭身とうしんの毛も太る」ように感じたのである。

今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子のしらみをとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。

それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片きぎれのように、勢いよく燃え上り出していたのである。

老婆は、一目下人を見ると、まるでいしゆみにでもはじかれたように、飛び上った。

丁度、にわとりの脚のような、骨と皮ばかりの腕である。

両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球めだま※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗しゅうねく黙っている。

※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏のどぼとけの動いているのが見える。その時、その喉から、からすの啼くような声が、あえぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。

老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、ひきのつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。

 

動物系の比喩が多い。人間的な善悪を超越しようとせんが為といえるかもしれない。

色彩

この作品は色彩についての語も多く使われている。これも何かを暗示したり、或いは身分などの追加情報を与える。引用はちょっと省略。別に飽きたわけではない。

 

善悪の彼岸

下人は善悪の彼岸に行けたのだろうか。まあ素直に考えるただ悪落ちしたってとこか、動物化したよというとこか。もっとも下人の行方は、誰も知らないのだから詮無きことか。

好きな文章

雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出したいらかの先に、重たくうす暗い雲を支えている。 

ここ動きがあって好き。映画的。実は黒澤の作品見てないから今度みとこ。このカットあるかな。

感想

やはり中学生以上に無職が読むべき。コンパクトな話は象徴主義と相性がいい。明確なデザイン意図が端々までに行き届く。もちろん人によってはそれはあまりに象徴的過ぎと拒否反応を示す人もいるだろうが、芥川のクリアカットな文体との食い合わせは良好で一流の作品であることに違いない。あとこの作品なら国語の授業において構成がしやすいだろうな。当時の授業なんてろくすっぽ聞いてなかったが。