GTAと龍が如く

今日はユールの導入していた概念をもとにちょっとGTA龍が如くについて(基本的に5と極)早口気味で語ってみようと思う。

基本性質としてGTA創発型ベース、龍が如くは進行型ベースといっていいだろう。これは世界の実装方法としても現れており、前者は完全にオープンワールド、後者はオープンワールド風(見えない壁有)である。(雑だが今日のところは許してつかあさい)またマップのリアルワールドシミュレーション度は龍が如くの方が高い。マップ規模的に当然ではあるがサンアンドレアスやリバティシティはかなり省略や再構成がされている。かつ様々な実在の小道具、店舗が龍がでは登場する。ルールとフィクションの一致度に関してはGTAが圧倒的に高い。これゆえ創発型ベースと感じるのであろうが、まさにそこに在る世界を経験するというためにはルールとフィクションのシンクロ率を高める必要があり、おそらくロックスターはこの点について最もリソースを割いているであろう。ぼくが龍が如くをプレイして感じる最大の不満はこの点である。なぜ商店街の先の見えている箇所に行けないのだ。神室町が実在感を持って立ち現れるほどに不満が高まる。ムービーの銃は危険問題とともに神室町の見えない壁は私にとっての重大議題である。もっとも「慣れた」プレイヤーにとってはお約束と感じられ、慈しむべき笑窪なのであろう。

しかし所謂洋ゲーマーにはこの点はしばしば揶揄される。更に論難される点としてはムービー過多、回想過多という点がある。特に序盤そこまでキャラに思い入れがない場合はかなりテンポが悪く感じられる。正直この点に関してはプレイするまでかなりおれもばかにしていた(ぼくはゼロと極しかプレイしたことのないにわか如カーです。ほかのシリーズは過去の同居人がプレイしてるのを見たり少し触った程度)。これだからジャパニーズゲームは┐(´д`)┌ヤレヤレみたいな。ただこれはシリーズをやっていると桐生ちゃんや真嶋の兄さんが愛おしくなり、またはじまったよもおばかだなあヽ(`Д´)ノプンプンみたいに許せるようになってしまう。日本社会を象徴するようなハイコンテキストゲーともいえるのかもしれない。とはいえ一方GTA5もキャラ萌え要素はかなり強化はされており、多くのトレバー信者を生み出しただろう。

結局のところ、龍が如くはストーリードリブンの進行型ゲームでゲームとしての豊饒さはゲーム内ゲームの量に依存している傾向が強い。また神室町はリアルのシミュレーションの忠実度が高いにも関わらず非整合な点が多い歪な作品である。しかしながらこのような歪さは桐生一馬と愉快な仲間たちの胆力のお陰で魅力へと転化しているのである。彼我の物量差を考えるとベターな選択であるとはいえるのであろう。

この短いブログの歴史の中でしつこく挙げるが、この点Hotline Miamiはルールとフィクションのハーモニーが極上なのである。素早く積み重なるロシアンマフィアとバイカーの死があの素晴らしい音楽とともに齎すトリップ感。暴力に快感を感じるようになったころ、我々はその暴力性に疑問符を突き付けられる。画面から送られる視線ということではもちろん映画などでも可能な手法であるが、これほどクリティカルにこちら側へ浸食してくることができるのは自ら手を動かすゲーム特有の経験である。もはやプレイヤーを安全圏に安住させないということこそが僕がゲームにもっとも求めていることだ。冷たいナイフの刃をこちらへ突き立ててくれ!