J.ヒリス・ミラー『文学の読み方』を読む(第四章)

第四章 なぜ文学を読むのか

  • バーチャル・リアリティは素晴らしい
  • 聖書は文学ではない

プラトンにせよ聖書にせよその著作はパリンプセスト的―過去の書き込みを消し上書きされる―である。また聖書は西洋においては絶対的権威がある

欽定訳聖書の場合、この力は国民国家の支配力と関係している。西洋印刷文化のなかの世俗的文学の権威は、これまでずっと遠回しに(または公然と)神聖な書物である聖書の権威をモデルにしてきた。p.104

いかにプラトンの著作もパリンプセスト的だとはいえホワイトヘッドがすべての西洋文化はプラトンの補注であるといったようにその影響はつよい。

プラトンソクラテス)はなぜ文学を読むべきかではないか二つの理由を示した。

まず『イオン』のなかで示された一点目について述べる。詩は霊感を受けて理性を失うことで作ることができる。この評価を著者はアイロニックな響きを感じるという。そして吟遊詩人は現体制を妨害する危険なものである。またニュー・ヒストリシズムやカルチュラルスタディーズの研究者は文学が普遍の真理ではなくイデオロギー的仮説を説くものと考える。ある特定の文化圏に没入させる役割を持つとするのである。この役割は当然、映画・音楽などによっても担われうる。

二点目は『国家』において、詩は「模倣」であるという理由から非難され、詩人たちは追放される。模倣を悪とすることに二点理由が示される。一つは二次的・派生的である。例えば現実のベッドというものはイデアの模倣であり、それを描写する詩(文学)は模倣の模倣であり無価値である。二つ目は詩は伝染力があり人間を堕落させる危険性がある。なぜならば自分以外の何かのふりをすることを奨励するからである。

しかしながらニーチェが指摘するようにプラトンが用いるソクラテスの口を通じて行う対話形式は小説の原型である。またプラトンの詩や模倣への嫌悪は彼の身体への嫌悪にリンクする。

カントもプラトンの系譜に名を連ねる。『判断力批判』において小説を読むことを断固拒否した。

カントは現実世界においては、共感することなく冷静に私たちの倫理的責務はなんであるかの判断を下すべきであるのに、小説は純粋に虚構の世界の人物たちに熱狂的に共感を示す。だから、それは悪いことである、ということだ。小説を読むことは、カントがよく使用していた言葉である「熱狂」(Schwärmerei)と呼ばれるものの一例である。「狂信」(fanaticism)はこの素晴らしいドイツ語の訳語としては弱い。それはまた、歓楽、乱痴気騒ぎ、熱中、陶酔、何かに夢中になること、偶像化なども意味する。小説を読むことに対する恐怖と侮蔑は、学生が取った講義ノートの次の一節にあるように、カントのなかで典型的な性差別的ひねりが加えられている。

 

  小説読みを妻に持つ男は不運である。なぜなら彼女は心の中でグラディソンと既に結婚したことがあるのは確実であり、今ではもう未亡人となっているからだ。そんな女が台所に入ろうなどと望むわけがない。 p.115

今日日こんなことを言ったら童貞乙の一言で切り捨てられそうなものである。他方この小説を酷評せよ(というより小説を読むという虚構に浸る行為について?)と自己言及を行うこともある。例としてオースティンやフロベールコンラッドなどを挙げる。

更にベンサムには鋲遊びと同じくらいの使用価値があると(最大級の酷評として)述べた。著者はコンピューターゲームも文学も等しく価値があると(ポジティブに)述べる。

アリストテレスは模倣を学び、喜びを見出せるものとして賛美する。悲劇のもたらす哀れみや恐怖によるカタルシスというホメオパシー的機能を称揚しいるとよむことも可能である。が別の読みも可能であり、それは悲劇が喚起する哀れみや恐怖の勘定それ自体が喜びであり善であるというものだ。現に『詩学』においては「カタルシス」という言葉が出現するのは一度だけである。また後者の読みはニーチェディオニュソス的不合理過剰を芸術全般にとって不可欠であるとしたことと似ている。

現代においても彼に文学理論は影響を持っており公的制度にも反映されている。文学は起こりうることを示す、蓋然性や必然性に従いある人物がどんなことをするかを示す。

  • 偽りの自伝としての文学

ロラン・バルトが作者の死を著してから日が経つが世間はまだまだモダンであり、ポストモダンパラダイムには移行していないというはなし。

  • 詐欺師としての作者

文学には事実確認的側面と行為遂行的側面がある。読者を魅了し、虚構であるという不信感を少なくとも一時的には保留にさせる必要がある。また詐欺師が絶対にやってはいけないということは自分を信じてほしいと直接読者に訴えることである。

  • スピーチ・アクトとしての文学

デリダとド・マンそして著書が正しければ言語の行為遂行的機能と事実認識的機能は相容れない。J・L・オースティンのスピーチアクト理論に従えば、行為遂行的影響力と発話者の意図は切断される。これは作者の死とパラレルである。※にもかかわらず発話に対する誠実さという概念を導入したことについてオースティンはデリダらに批判された。