J・ヒリス・ミラー『文学の読み方』を読む(第三章)

夢物語としての文学?

『ペテルブルグの夢―詩と散文に見る』を引用、これはラスコーリニコフが眼にする場面として反復される。現実世界のグロテスクな変形。「現実世界」よりももっとリアルなもの。シレーノス的なものを含む。

  • アンソニー・トロロープの危険な習慣

白昼夢。著者ミラーはそれほど鮮明にみることができなかったため、小説を読む必要があり、書けなかった。

名誉や富や女性の愛情などを、現実の人生において奪われてきた者たちが想像力で獲得したもの p.62

とはいえ白昼夢と異なる部分もある

想像上の世界はその存在を言葉に依存しているのではない。その世界は言葉によって生じるわけではないのである。小説の言葉とは、もちろん行為遂行的ではあるが、その行為遂行的機能とは、言葉と離れたところに存在していると思える領域に読者を近づけることである。たとえ読者が言葉を経由する以外そこに入れないとしても。…カフカが断言したように、"Ich"が"er"になり、"I"が"he"(あるいはトロロープの場合"she"が多い)になるところから文学が始まる。p.65

  • ヘンリージェイムズの人跡未踏の雪原

ジェイムズは『黄金の盃』の「物語の素材」を人跡未踏の広大な雪原に喩えている…それは一つの基層物質、すなわち「基底材」(subjectile)である。これは絵画を描く際に使用される画布、神。石膏といった基礎となる面を意味する一風変わったフランス語である。「素材」とは、その上に物語が書かれる表面であるだけでなく、それに関して物語が書かれる題材でもある。ジャック・デリダは、アントナン・アルトーに関する二作目の長い論考「基底材を猛り狂わせる」というタイトルのなかに、この「基底材」という用語を用い、それを次のように定義している。

  

 この概念は絵画の記号体系に属していて、実体、主体、妖魔スックブスのように何であれ下の方に横たわっているもの(subjectum)を明示する。上部と下部との間にあり、それは支持物でも表面でもあり、時には絵画あるいは彫刻の素材でもあり、意味や表象からも、また形態からも区別される全てのもの、つまり表象不可能なものである(ce qui n'est pas représentable)。

 そのほか処女雪(virgin snow)という比喩をもとに古い足跡をたどるのが難しい場合には改訂する必要が生じる。再読(物語の隠されている素材への回帰)によって威圧的に求められる緊急的必要性を「より適切な通路」の「穿孔」(perforation)という性的な意味を暗示する比喩をジェイムズは用いる。この性的な比喩はvirginに呼応する。

再読行為によって古い素材を再専有するリアプロプリエイトということは「絶対的なもの」である。この「絶対」という言葉は事故分割を免れた何者にも束縛されない状態を意味し、ヘーゲル的歴史の終焉を含意したものである。自他のあらゆる区分がアウフヘーベンされ超越されたものであり人跡未踏の広大な雪原はこのイメージとして適切である。精妙な描写を要求すると同時に不思議なまでに特徴がない、差異化されていない、一種の空虚。

翻訳と原作との不一致によって「純粋言語」(reins Sprache)を垣間見ることができる。原作と翻訳の関係を割れたツボの隣接する破片にたとえ、これらは似通っている必要はないが容器全体を再構成するためには互いにぴったり合わないといけない。原作と翻訳の両者を超越する「より大きな言語」

ベンヤミン、というよりむしろ彼の訳者がこう書いている―「何も表現しない創造力のある『言葉』のように、そこに在るもの意外にはもはや何も意味しなければ何も表現することのないこの純粋言語においては、あらゆる言語―全ての情報、全ての意味、全ての意図―によって意味されるものは最終的には消滅を運命づけられているある層に到達することになる」。p.76

文学作品と嘘が、どちらも対応す指示対象をもたず、事実の陳述と相容れないという点で、文学は嘘をつくことに似ている。p.78

無数のオルタナティブ・ユニバースは芸術家によって発見されるもので、発明されるものではない。

正直このブランショの箇所はスッと理解できていない感が否めない(そもそもブランショをまともに読んだことないので当たり前かもしれないが)一応まとめとく。

失われた時を求めて』や『オデュッセイア』の読みにおいて二つの時間的体験を区分している。 un peu de temps à l'état pur「純粋な状態にある時間の断片」時間の外にある時間、別種の時間、イメージの時間。これはブランショにとって書く行為の起源、「書くことの神秘」

小説(roman?)と対を為すものとしてレシ(recit)がある。ユリシーズとセイレーンの物語はオデュッセイアのなかに埋め込まれたrecitである。『白鯨』もその一例である。

これは感覚的にはよくわかるが、これに付随してrecitに対立する小説についての説明がp.88にあるがいまひとつわからない。とりあえずブランショを読むしかないかも。

recitはアレゴリーではない。以下は著者がブランショを引用した箇所

物語とは、ある地点へ向かう動きである。その地点とは、ただ単に未知の、曖昧模糊とした馴染みのない地点であるばかりではなく、この動きを離れては如何なる種類の現実の先立つ存在もないように見える地点であり、しかもこの地点は、物語がただこの地点からのみその魅力を引き出し、その地点に到達しないうちは「始まる」ことさえないような、非常に重要な地点である。しかもまた、物語と予測しがたい物語の動きだけが、この地点が現実的な、強力な、魅惑的な地点となるような空間を創造するのだ。pp.91-92

そのあとはバートルビーの話

文学についてはブランショからの影響も強いがフッサールから導かれたものが多い。

見つけるあるいは発見するという意味で作者が発明するものを、デリダは絶対的な「他者」と規定しているデリダによれば、理念的対象を言葉で記録するものとしての文学作品とは、「他者を経由すること、つまり『来なさい』と呼びかけ、それに対するもう一つの『来なさい』という応答が望ましく関心を払うに価する唯一の発明であるように思える他者の到来を経由するのでなければ、発明されえないものである」。文学作品の作者は、自らに課された容赦ない責務への応答として、ヘンリー・ジェイムズの言う「物語の素材」を別の奇妙な非物質的な有形物、すなわち言葉へと変化させるために作品を書くのである。p.96

  • 種々雑多な仲間たち

ここは本章のまとめ

文学作品が現実世界の束縛を受けないということではない。文学作品は、それが発明ないしは発見するハイパーリアリティを示すために、社会的、心理学的、歴史的、物理的現実を示す言葉を置き換えて使用しているのだ…こうして文学作品は、それを読む読者の信念と行動に強く影響を与えながら、「現実世界」に再び入るのである。p.97