平田オリザ『演劇入門』(第五章)を読む

第五章 「参加する演劇」に向かって

第一章で提示された三つの(ここでも引用した)問いかけの答えは

 全て、観客とのコンテクストの摺り合わせという課題のなかに潜んでいるのではないだろうか。

「リアル」とは、すなわち。「いま、同じ世界に生きているということ」だろう。あるいは、「いま、同じ世界に生きている感覚」と言ってもいい。私が目の前の机の存在をリアルに感じるということは、目の前の机と私とに、何らかのつながりを見つけだすということだろう。 p.189

 しかし演劇におけるリアルは五感を駆使して様々につながりを模索できる現実とは異なる。更新し続けるべきリアルさの知覚は演劇においては「観るー観られる」の関係に限定される。そのような条件で成立するリアルな演劇とは表現者と鑑賞者の間で「内的対話」とも呼ぶべき特殊な対話行為が行われているのではないだろうかという。そしてそれは多種多様な観客と表現者との間でそれぞれ存在しうる。多様なコンテキストの共有可能性を開きかつ自らのコンテキストを開示することに現代演劇の戯曲を書く困難性がある。ハイコンテキスト社会である日本、ひいては高校生では無自覚なコンテキストの押し付けが生じ、説明的なセリフが増え勝ちになるのではないか。

表現者と観客が交通もしくは交換可能であった例として

古代アテネの市民が持ち回りで参加する部隊、江戸時代の歌舞伎

逆に隔離されている例として

ローマ帝政時代のコロッセオでの検討試合、近代帝国主義の産物であるオペラ、共産主義政権下のサーカスを挙げる。

前者のようなデモクラティックな演劇の有様は現代においてひび割れ始めたハイコンテキスト社会において世界をリアルに知覚する方法を取り戻すシミュレーションとなるのではないか。

芸術家が強烈に提示するコンテキストにアートリテラシーをもって批判的にレスをする。

そのとき生まれる新しいコンテクストは、決して表現者である私のものでもなければ、鑑賞者だけのものでもない。そこに、コンテキストの共有、新しいコンテクストの生成が起こるはずなのだ。

そして私はそこから生まれてくる感覚をリアルと呼ぶ。

その新しく生成されたリアルは、さらにまた、他社との接触を通じて、異なったコンテクストの組み替えを要求するだろう。

演劇とは、リアルに向かっての無限の反復なのだ。その無限の反復のなかで、ゆっくりと世界の形が鮮明になっていく。この混沌とした世界を解りやすく省略した形で示すのではなく、混沌を混沌のままで、ただ解像度だけを上げていく作業が、いま求められている。 p.203 

なかなか薄いけど熱い良い本でした。ニート向けだし。

平田オリザの演劇手法は現象学的な感じといっていいのかな。グッドマンの世界制作の方法とか(あんまよく覚えてないが)に通ずる感じ。